今でも、軍治は篠原村を考え、がらんとした古い家を考え、苔生した小さい墓碑を考えるだけで、胸のすくような誇りをおぼえ、名将・山縣三郎兵衛正景の血脈をわが身に覚えるのであった。
軍治はその郷愁に酔っていた。そうして、自分がいま名乗り、自分がいま坐っている村瀬家が、すなを噛むような味気ないものになっていくのを感ずるのだった。
「のう武門、お前は篠原村をどうかんがえているね?」
「どう?といいますと?」
「お祖母さんを好きだったかね?」
「私は、お祖母さんに叱られた記憶しかありません。やんちゃでしたからね。だから、恐い人だったとしか思えません」
「そうかね」
軍治は不思議そうに武門を見た。
この男には、祖母よりも尚あまい父母があったのだ。それだけに、この村瀬家は武門にとっては掛替えのないそんざいではないか?
「のう武門、お前は村瀬家を嗣いではくれないか?」
思わず、軍治の口をついて出たのは、言いそびれ、ためらっていたそのことであった。
「−−−で、兄上は?」
武門はしばらく間を置いてたずねた。
「私には、私の希望があるのだ」
『兄上のお気持ちは解りますがーーー」
「いやなのか?」
「いえ、別にーーー」
「私の健康についての心配なら無用だ。すぐとは言わない。そのつもりで精出してくれないかーー」
武門はうなずいたが、突然のことなので戸惑っているらしかった。二人は黙って、歩きながらお互いの考えに浸っていた。
長禅寺あたりで搗く鐘の音が、抹香の仄匂う街並みにくすぶるように篭っていた。
「兄上も行かれると思うがー」
軍治はぽつんと言った。
「お誘いしましょう」
武門お明るい返事であった。
軍治の言葉の意味を果たして呑み込んだであろうか?軍治の言葉には、長兄の昌樹ともじっくり相談したらよいといういみが充分含めてあったのである。続く
石井計紀著 黎明以前より転載

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