六
十六日の早朝には、精霊を糸経ぐるみ荒川へ流させたが、その後、軍治の健康ははかばかしくなかった。けだるさや頭の重さで床の上にいる日が多くなって、回復への自身がすなのように崩れることがあった。八月には、駿府城お目付役が甲府城検分にやって来るのが恒例であった。日常はともかく、そういう日のためには、多少の無理があっても勤めねばならない。その日のために、やっておかねばならぬこともあった。苛立ちが稲妻のように絶えず身内をはしっていた。読書にも紛れず、眠りの中にも忍び込むものは、暗い予感であった。恐れであった。不安であった。何か解らない、もやもや密雲の中で、大人がなく悶えていた。これは、すべてが自分の健康への自身の喪失からきているのかもしれない。
軍治は医師の牧野正訓から、医書を借りてむさぼり読んだり、五、六丁先の飯田新町の兄の浪宅を訪ねたりした。八日町の加藤竹亭が財にあかして買い集めている書画骨董を見に行ったり、江戸にいる妻の兄・斉藤左善への便りを頼むために、自ら問屋・加藤へでかけたりして、強いて足や身体を使っていた。
八月十一日、軍治は何時にない身体の軽さ、気持ちの張りに、それとなく元気づいて、久しぶりに読書に身が入っていた。
長禅寺の暮れ六つが鳴っても武門は戻らなかった。しばらく待ったが戻らぬので、軍治は先に夕食を済ませて、書斎に入った。一刻ほどして、玄関に足音がした。武門だと思っていると、
「お頼み申す」
四角なおとないの声がした。連れがあるらしく、ぼそぼそ話し声が聞こえた。
何か、暗い脋えが、さっと頭をよぎったが、軍治はまたかと自嘲した。
「満田佐十郎でござる」
妻に告げている声は、まさしく町方加勤の同僚・与力満田に違いなかった。久しく聞かなかった声を聞いて、胸の躍るような懐かしさが湧いた。それと同時に、今頃何の用事であろうという訝しさが湧き上がった。だが、それは極めて短い時間であった。
座敷に招じ入れた満田佐十郎と水野伝六から、思いがけない武門の殺人事件を聞いて、軍治は殴られたように暫く茫然とした。
武門が一刻ほど前に、飯田新町の名主・五兵衛の倅・新三郎を殺害して何処かに逃走したというのである。 続く
石井計紀著 黎明以前より転載

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