念願の項目にやっと入ることが出来るようになりました。
細部にわたるところは今後に委ね、出自と系図から書き始めました
阿部正弘にかかわらずどの時代も、時代の要請により神からの人物の配材により人は世に送り出される。
正弘も、八代将軍吉宗と同じく側室の子であり、高野具美子(くみこ)を生母として、父政精(まさきよ)の第六子として、江戸西丸下で生まれた。
時に、文政二年(1819)十月十六日。これぞ神の采配というべきであろう。人生のめぐり合わせすべてが人智の及ばぬ出来事であり、生けとし生きるもの・万物の配材は時代の要請が結果として表されるのあろう。
さて、安部正弘は、幼名剛蔵といい、後、主計と改める。このままであれば、どこかの大名家に養子に出されるか、部屋住みで気ままに一生を終わる。
八代将軍吉宗も父・兄二人の早逝で紀州藩主の座に着く、正弘も父の病で家督を受け継いだ兄が病弱のため、天保七年家督を譲り受け福山十万石の藩主となったのである。
幼いときより、姿や顔立ちが端正で色白く、いつもにこやかであったという。父政精の評によれば「さとく、賢く、普通の子供と異なり大人びていた」とある。 続く
参考文献 平井隆夫:阿部正弘の出自と系図 童門冬二:開国への布石 福地源一郎:幕末政治家

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