先日のことになるけれど京都・五山の送り火がNHKで生放送された。
関西地方だけかと思っていたら、どうやら全国放送だったようだ。
視聴率が良かったのか悪かったのか分からないが、ともあれ、これで京都の大文字送り火のことを大文字焼きなどという悲しい名前で呼ばれなくて済むだろう。
NHKの放送は、最初から最後まで、送り火が宗教行事であることをいやというほど強調していたから。
私も全然知らなかった。
坊さんの読経が続く中、ろうそくの火が松明に移されて、それが大の字の火に点火されるとか、点火されている間ずっとお経を上げているとか、鳥居形だけ点火方法が違うとか、初めて知ることばかりだった。
さすがにNHKだけあって、予想以上にずいぶん素晴らしい中継だった。
素晴らしすぎて、私たちが子供の頃見ていた大文字とはまったく違い、あまりにもリアリズムすぎて、触れてはならないタブーの部分があからさまに白日のもとに曝されたような、大文字の神秘性がなくなってしまったのが少し複雑で、寂しかった。
大文字は遠くからはるか山々の火を眺めるもので、点火される瞬間を見たり、火が運ばれる様子を見たりするものではないような気がするのだ。
毎年ローカル放送のKBS京都が生中継をしていて、今年もローカルでも中継しており、NHKとかぶったのだが、NHKは今年限りで来年はもうないだろうから、また来年からはローカルの貧乏くさい生中継を見ることにしよう。
ローカル放送では、京都の各地に置いたカメラからそれぞれの山の送り火を写す、というオーソドックスな中継で、NHKではどうするのかと思っていた。
送り火というのは元来スタティックなもので、中継しても面白くないだろう。
けれどもNHKはさすがにお金があるらしくて、点火のまさにその瞬間をカメラがとらえ、若者が火床をめがけて走り回る様子までもどんどんカメラで写す。
さすがの臨場感だ。あれはあれで面白い。
スタティックだと思っていた送り火が、すごくダイナミックな重労働だと分かる。
だけど、さっき言ったように、見ている我々は、むしろそんな舞台の裏側は知らない方が良いようにも思ったのだった。
子供の頃、小学校の屋上に毎年のように大文字を見に行っていた。
その時、子供心に思ったことは、大文字ははかない、そしてむなしい、という思いだった。
時間になると、そろそろ家を出て学校へ向う。
屋上に昇り、いつ始まるかとどきどきしながら見る。
けれど、いざ、大の字に点火されて山に火がつくと、その火のついている時間はとても短く、あっという間に燃え尽きて、送り火は終わってしまう。
もう少し見ていたいのに、いつ見てもあっという間に終わってしまう。
ほんの一瞬。その一瞬に終わってしまうはかなさ、むなしさ。
いつも最後には寂しさ虚しさを覚えて家に帰る。
いつもあっという間、いつも見たあとは何てはかないんだろう、と思っていた。それが、大文字の思い出だ。
大文字の送り火とは、お盆の行事である。
3月3日のひなまつり、5月5日の子供の日、7月7日の七夕などと同じ、季節の行事。そのような感覚で、我々は育った。
8月16日はお盆であり送り火の日、それは我々の常識だった。
それは京都だけの行事かもしれないが、日本人としてこれくらいは覚えておくべきことだと私は思う。
京都は日本文化の発祥地であり、日本の伝統の源なのだから。
京都の送り火がいつから始まったのか諸説あり、定かでないが江戸時代初期から文献に見えるという。一説では室町時代後期という説もある。
(平安時代という説もあるが、それは嘘だろう)
文献にある1600年代半ば、としたら350年くらい続いていることになる。
京都で350年というと、そんなに昔ではない。
祇園祭や葵祭のように軽く千年の歴史を持つ催しから比べると、よほど新しい。
けれども、全国に類似のものに比べたら、それらよりは文句なく古いと言えるだろう。
知らなかったが、全国に大文字という催しがいくつもあるらしいのだ。
奈良にもあることを知って驚愕した。関東にもあるという。
奈良のものはいつからあるのか知らないが、関東のものはおおかた戦後、もしかしたら5年か10年くらいの歴史しかないのではないだろうか。
とすれば大文字というものは、無条件に京都が発祥で、他の地方のそれは京都の真似っこであるだろう。
ただいかに真似をしてもその精神までは真似が出来まい。
KBSのローカル放送では、大文字が単なるイベントであったらこんなに長く続いていなかった、それが宗教行事であるから、心の行為であるからこれだけ続いて来たのだと言っていた。
京都では大文字焼きというと、そんな名前のお菓子は食べたことがおへん、と言い返される、という伝説がある。
京都以外の地方ではあれを「大文字焼き」と言うところがあるそうなのだ(それは送り火ではなく、ただ単にイベントなのかもしれない)。
とするならそれらと京都の送り火を一緒にして欲しくない。
350年間、あの5つの山のふもとではずっと、あれらの行事が伝えられて来た、その重み。それを汚して欲しくないと。
けれども、「大文字焼き」以上に情けないのが、京都の各ホテルでの「大文字ディナー」だ。
大文字を見ながらディナーを楽しむ、というホテルの企画。
送り火の2、3日前にもホテルオークラ(京都)の広告が新聞に出ていた。
ディナーをいただきながら大文字を見る。
違うだろ、と。
花火と間違えているのではないか。
大文字は花火じゃないんだから。
ご飯をむしゃむしゃ食べながら見るものじゃないだろと。
ホテルオークラだけではない。京都のどのホテルでも大文字ディナーを宣伝している。
高層ビルが建って、我々庶民が容易に送り火を見られなくなってから、ホテルディナーがどんどん活発になって来た。
京都観光ビジネスは堕落しまくっている。
私にとってはこの世のはかなさの象徴だった大文字。
今ではもう、あの小学校の屋上が禁止になってから、見ることが出来ない。
大文字が燃えるのは一年のうちのたった1日。
あとの364日は、その字が書かれた山肌を京都市民は見ながら過ごす。
350年間、あの裸の山肌を市民にさらし続けて来たのだと思えば、それもすごいことかもしれない。

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