ミシュランが京都で活動しているという話が、ここのところ新聞などで話題になった。
東京でミシュランが発売された時に、マスコミで大騒ぎになったことは知っている。
でも私は、食い意地が張っているだけでまったくグルメではないので、むしろグルメよりは雑食、貧乏食い(?そんな言葉はあるのか)なので、東京ミシュランには、金輪際、まったくからきし、何の興味もこれっぽちもつゆほども何もなかった。
もちろんそれは東京という、自分とは無関係の興味のない土地での出来事であるということにも関連している。
自分の行かない土地の食べ物を特集した本を買ったってしようがない。
ところが、この本が京都でも売れたという。
京都の人間が何で東京を特集した本を買うのか。とうてい理解出来ない。
多分、京都の人が東京へ出張した時、ご飯を食べる段になって、そうそう、本に出ていたあそこで美味しいものを食べたい、せっかく東京まで来たのだからもののついでに、という感じで、そういう時のために嬉しく楽しく想像するために買うのだろうと思う。
この本の出版においては、私は良く言われる格差社会、という言葉を思い知った。
この本が良く売れた、ということは東京にはいかに富裕層が多いか、ということを示しているだろう。
この本は、格差社会における、勝ち組のための本なのだ。
勝ち組の象徴のような本だ。
食べ物にふんだんにお金をかける、ことの出来る層に向けての本である。
私のような貧乏人には無縁の世界である。
また、自分の胃の中に消えてしまうものにお金をかけるくらいなら人形を買うことに費やす、という価値の倒錯した人間とも無縁の本である。
人形を買うためには食料への出費さえ削らなくてはならないほどの貧乏人には、無縁であるのは当たり前なのだ。
そんなわけで、ミシュランという言葉には興味も抱いていなかったのだが、ある時、京都の老舗料亭に何人かの客が来て、食事をしたあと、自分たちは実はミシュランの使いであり、京都の料理屋について調査をしている、と打ち明けたという。
ミシュランが東京に続き、京都にも触手を伸ばしているらしい、と、京都の料亭で一気に噂が広まった。
そのようなことが、最近、京都で話題になって来たのだ。
その京都ミシュランが出来上がるのかどうかは分からない。
店頭にはそのような本はまだ置いてない。現在調査中、らしいが、順調に仕上がるかどうか、五里霧中というところだと思う。
テレビでもミシュランのニュースが取り上げられていた。
京都吉兆の責任者の人がインタビューに出て来て、ミシュランがうちに調査にきた。
大変光栄であった。(調査されたというだけで)一流であると認められたようで嬉しい…、というような感想を言っていたと思う(正確には忘れてしまったので、どうだったか覚えてないが)。
けれども吉兆は、結局、自分の店をミシュランに掲載するのは止めてくれ、と辞退したのだと言う。
なぜなら、京料理は味だけではない。
その店の雰囲気、料理の盛りつけ、うつわ、接客、庭、灯篭の有無、部屋の佇まい、調度、掛け軸、鴨居、襖、畳、障子、ざぶとん等々、それらを含め、すべてをトータルして味わうのが京料理である。
味付けだけで決めつけるべきものではない、というのがその人の、店の主張であった。
まあ老舗料亭であるから、味が良くないということではないとは思う。
別に味に自信がないからこういうことを言っているのではないだろう(と思いたい)。
もしくは、味はそこそこ、他とそんなに変わらない。
でもうちは老舗だっせ。雰囲気で味わってもらいたいのだす。
京の四季おりおりの風情と共に、老舗の格式に金を払って欲しいのだす。
ということなのかもしれない。(いつの間にか大阪弁になってる)
ともあれ、ミシュランの調査に異議を唱える所が京都らしい。
老舗料亭は、それぞれにものすごいプライドというか、誇りを持っている。
それは、京都の伝統工芸士がそうであるように、ちょうどそういう人たちと同じような意識を持っている。
そして、自分たちに絶対の自信を持ってる。
だから、他人があれこれ評価をして、それで他人が成績を決めるなんて許せない、プライドが許さない、と言う気持ちなのではないだろうか。
オマエラに何が分かるか。オマエラ素人なんかが一度や二度来てちょっと食べたくらいで、簡単に評価されたくないわい。
ワシラこの暖簾をもう500年も守って来てんねん。
オマエラに京料理の真髄が分かってたまるか。口出しすな。ミシュランがなんぼのもんやねん。
なんべんも足を運んでくれはるお客はんにええ言うてもろたらそれでええのや。
エエそうとも。という。
まあさすがに京都人は、良く言えば、ちょっとやそっとでは権威というものになびかないのだな、と思い知った。

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