大文字の送り火は、昔、私が子供のころには、近くの学校の屋上で、毎年見た、
ということは前にも書いた事がある。
というか、去年も大文字送り火について書いた。
家から一分くらいで行ける小学校の屋上へ上がると、大文字の5つのうち、4つが見えた。
ひとつだけ見えなかったのが何か、もう思い出せない。情けない限りだ。
妙法のどちらかひとつが見えなかったような気がする。あれは、妙と法、2つでひとつと数える。それ以外は見えたのかもしれない。
しかし小学校の屋上は、のちに死亡事故があったらしく、そのうち上がれなくなった。
それで今はテレビで中継を見るしか、大文字を見ることが出来なくなった。
京都の人間は、大文字を見るためにお金を払うなどという行為は邪道だと思っているから、ホテルの送り火ディナーなどには行かない。
出町柳や鴨川の河川敷に行けばいくつか見られない事もないが、それもわざわざバスに乗り、バス代を払ってまで見ることはない。
そんなわけで、自分の目で大文字を見る機会が、最近ではなくなってしまった。
いきおい、テレビでお茶を濁すことになってしまう。
去年のテレビ中継は、NHKが出て来て全国ネットで中継した。
それはとても立派な中継で、視聴率も良かった(京都でも視聴率が良かったのだ)。
しかし、京都では毎年、KBS京都が生中継している。
KBS京都は祇園祭も葵祭も時代祭も中継する。
いつ潰れるか心配なテレビ局だが、頑張って地域のために祭の放送をしているのだ。
NHKの立派な全国放送に比べて、地元局のはなかなか地味な、淡々とした放送である。
それでもNHKが1年限りであるのに、KBSは毎年放送してくれる。
肉眼で大文字を見る機会をもうあまり得られない我々にとって、ありがたいと言わなければならないだろう。
だが、KBS京都の生中継の段取りの悪さはどうしようもない。
今年の送り火中継の実況アナは、杉山と言うじいさんアナだった。
角淳一と言い、杉爺と言い、じいさんは特に生中継の時の反応が遅すぎる。
臨機応変な対応が出来ないのだ。
写っている画面と喋っていることがずれてしまう。
送り火なんか、点火するのに時間がかかり、あとはただ火が燃えているのが延々と写っているだけなのに、それでもずれる。
だからじいさんアナは駄目だと言うのに…。
それと、KBS京都は鳥居形を写す時、ボークス天使の里を借りているのもむかつく。
天使の里は大文字が見えることをウリにしているのが、むかつくのだ。
去年のNHKの放送は地元で大反響を呼び、地元の京都人でさえ知らない風習などが紹介され、へえ、大文字ってこんなだったのかと驚く人が続出した。
新聞にも放送に対する反響が紹介されていた。
それらは皆、NHKの放送に対するものだった。
地元の人もKBSを見ないでNHKを見たらしい。
ただ、私はNHKの生中継でひとつ、不満があった。
それは、火床にカメラが行き、まさに点火されるその瞬間が写ったりしたことだ。
私たちにとって、大文字とは、遠くから眺めるものだったことが、その時よく分かった。
火が点けられ、それが大の形に作られてゆく、そのさまを間近で見ることは、何だか大文字の神秘性をはぎ取り、見てはならないものを白日のもとに晒すような、不粋な行為のように思えたのだ。
大文字は、神秘的なままの方が良い。
遠くから眺め、拝むもの。
近くに寄ることは、禁忌を犯すことに近いのではないかとさえ思った。
送り火に点火する人がいるのは分かっている。
だけど、それは老練な、爺さんやら熟年の男が黙々とその行為を行っているのだろう、と何の根拠もなく思っていた。
だけどNHKの放送では、若い、ピチピチの男の子が走りまわって火を点けていたのだった。
私が昔毎年見た、あの大文字もその時の若い男の子が点けていたのだろうか。
何となく私はそれこそ、送り火の神秘性がはぎ取られ、幽霊の正体見たりだとか、夜目遠目傘のうち、などという諺が思い浮かんだ。
ところで、私は大文字という言葉を送り火の代名詞として使っている。
五山の送り火は5つあって、大文字、妙法、舟形、左大文字、そして鳥居形だ。
それらを総称して我々は「大文字」と言っている。
京都御苑を「御所」、と大雑把に言うみたいなものだ。
対外的には「五山の送り火」と言うが、普段そういう格式ばった言い方はせず、「大文字」と言う。
今日は大文字やな、というように。
京都人は今日は五山の送り火やな、とは決して言わない。
どこで大文字を見る?と言う時は、別に大の字だけを見るのではない。
このあたりに、大文字に対する誤解が生まれるのだと思う。
京都以外にも大文字があり、それらは「大文字焼き」と言われているのだと言う。
山焼きという行事があるから、奈良などはそこからそう命名されているのかもしれない。
京都以外に大文字が灯される、と知った時には私は驚愕した。
驚天動地の驚きだ。
京都オリジナルの行事だと思っていたからだ。
でも、他府県のことは詳しくはないが、京都以外の大文字は多分、大の字だけで、しかも京都よりも歴史ははるかに新しいのではないだろうか。
京都の大文字の起こりは分かっていないらしいが、江戸時代初期か、江戸の前あたりからだろう。
京都以外で行われる大文字「焼き」は、京都の送り火を、単に真似したのだと思う。
真似しておいて大文字焼きなどというネーミングにしていることを、私はどんなに怒ってもイカリが収まらない。
そういう劣悪な真似はやめて欲しいものだ。
いや、別にそれらが「大文字焼き」という名前で呼ばれようと全然構わないし、そんな真似っこのちんけな、大の字一字しかない「大文字焼き」には何の興味もこれっぽちもないが、京都の格式があり歴史のある、れっきとした本家の送り火と、ちんけな真似っこ大文字を混同して、我々京都の大文字も「大文字焼き」と呼ぶのだと勘違いし、「大文字焼き」と呼ぶのだけは勘弁して欲しい。
真似したくせに、間違った知識を全国民に植えつけているという行為が許せないのだ。

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