「都と京」という本がちょっと前に文庫本になって発売された。
この本はたしか、「負け犬の遠吠え」というエッセイを書いた女性ライターによる、東京と京都の、言わば比較分化論(?)のような本。
筆者は東京生まれ、東京在住。
むしろ京都の方に比重が置かれていて、京都についてのことの方が沢山書かれている。
しかし東京について書いてあることも興味深く読んだ。
全体に示唆に富んでいる。
あの麻生圭子の駄本と比べれば、どれだけグレードが高く溜飲が下がるかは言うまでもない。
例えば一つだけ例をあげると「はる」という、京都独特の敬語についての記述。
京都では自分の親や子供や、犬にまで敬語を使う。
それだけでなく泥棒にまで敬語を使う、という俗説がある。
私は自分の子供に「はる」を使うのは抵抗があってイヤだが、でも泥棒に「はる」は使うと思う…。
泥棒があの家に入って、根こそぎ盗んでいかはったらしい…なんていう風に。
麻生圭子は、京都人が犬や子供にまで「はる」を使うのはおかしい、変だ、と、上から目線で、わざわざ京都人の友達に注意までする始末。
それ、おかしいからやめた方がいい…と。
ところが「都と京」の著者酒井順子は、京都人は犬や犯罪者にも「はる」を使い、そして天皇陛下にも「はる」を使う(天皇さんが京都に来たはるらしい…等)、
だとすれば、「はる」は敬語ではないのだ、と、すぐに話が次段階へ進み、「はる」に関する考察へスライドしてゆく。
すなわち、「はる」は自分と他者を区別する、他者と一線を引くための言葉である、と。
京都人は、他人とは距離を置くことを常としている。
『「自分でない者は、親でも犬でも殺人犯でも上司でも「してはる」』
『(天皇のような)圧倒的な高所にいる存在でも「はる」だし、犬にも「はる」』
そして
『相手が誰であっても「はる」によって、その高低差をフラットにする』
自分以外は誰であっても平等。
この分析になるほどと感じ入った。
これくらいの分析をしてくれれば我々京都にいる者も文句はない。
あの人がこれこれということを「したはる」、と言う時、一見、その人を敬っているような言い方ではあるが、丁寧に言っているだけで、敬う気持ちはなかったりするのだ。
むしろ相手(の身分)を自分と同じ立場に引き寄せ、それでいながら自分とは違う他者の行動として突き放す。
この京都人の、他者との距離感が「はる」に現れているのかもしれない。
麻生圭子がいかにとんちんかんであるかが良く分かるだろう。
あと色々面白い話があった。
京都の公園には(東京に比べて)じいさんがうようよいる、とか、
京都人は「京都の中心近くに(古くから)住んでいればいるほど偉い」という感覚を持っていて、少しでもそれから外れると、自分はこれっぽちもみやこ人だと思っていないという態度をとる…など。
なかなか鋭い。
私も全くそのとおりだから。

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