突然ですが、昔話、するよ。
高齢者は思い出話が多くなるのさ。
まあこれまでもいろいろ昔のことを書いているので、
かなり高齢だということはバレていると思うので、
この際全部バラしてしまおう。
最初に自分で見た映画は「ロミオとジュリエット」
(フランコ・ゼフィレッリ)。
2番館、3番館まで追って5、6回見た。
サントラも買った。
学校で「ギブミー、ギブミー」というジュリエットのセリフが流行り、
ジュリエットのヘアスタイルをまねて、
三つ編みの上にリボンで巻いて来る子もいた。
その頃映画は斜陽で、映画の最盛期は確か1950年代。
60年代に入るとテレビの普及もあり、映画は衰退していった。
アメリカはベトナム戦争に突入し、反戦運動がはやり、
ヒッピーが台頭し、ビートルズなどの若者文化が生まれた。
映画はそういう文化に対応できず、当時のアカデミー賞は古い旧態依然の、
まあ流行おくれの映画ばかりが選ばれていた。
70年代は、映画がどん底状態の時だった。
映画館はガラガラで、映画文化に危機感が生まれていた。
そんな時に、私は映画を見始めた。
どんな時でも、
思春期とか、青春時代の子供は映画や文学に目覚めるものだ。
私は年の離れた姉の(とここを強調)影響もあり、
いきなり映画をどんどん見始めた。
ヨーロッパ映画が好きだった。
日本ヘラルドという会社があり(今もあるのかもしれないが)、
そこは良質のヨーロッパ映画をたくさん輸入していて、
ヘラルドのマークがあると喜んで見た。
フランス映画が随分輸入されていて、
フランス映画の恋愛ものをたくさん見た。大好きだった。
「個人教授」「ふたりだけの夜明け」「恋人たちの場所」
「約束」「若草の萌えるころ」「女鹿」「雨の訪問者」「さらば夏の日」
もう誰も知らないだろう。
ゴダールとトリュフォーはカリスマ扱いで、トリュフォーは好きだった。
「夜霧の恋人たち」「アメリカの夜」「野生の少年」
「恋のエチュード」などのころだ。
ゴダールは政治の方?へ行き、学生のカリスマになり、
不思議な映画を作り学生に受けていた。
「東風」なんかは大学の学生会館で上映され、何か知らんけど私も見た。
ゴダールの「気狂いピエロ」は私の映画前期の映画なので見てなくて
(のちの特別上映などで見た)私の時代は「ウイークエンド」あたりだった。
アメリカ映画は、先に行ったように斜陽で、
そのころはアメリカン・ニューシネマばかりだった。
「イージーライダー」「明日に向かって撃て」「真夜中のカーボーイ」
「去年の夏」「ファイブ・イージー・ピーセス」「いちご白書」
「アリスのレストラン」「夕日に向かって走れ」
そんなの。
イタリア映画はマカロニ・ウエスタンが急速にすたれ、忘れ去られていて、
監督中心だった。
パゾリーニ、フェリーニ、ヴィスコンティ、アントニオーニ、
そしてデ・シーカなどもまだ活躍していた。
その頃最ももてはやされていたのがパゾリーニで、
パゾリーニ自体も絶好調で、「アポロンの地獄」「テオレマ」「豚小屋」
「王女メディア」
とにかくパゾリーニ最高、と持ち上げておくのが風潮だった。
けど京都では1週間で打ち切り、が普通だったけど。
そうやって片っ端から硬軟入り交じり洋画を見まくっていて、
そのうち映画雑誌「スクリーン」なんかを買い始めて、
それで映画の情報を得るようになる。
すると、雑誌には紹介されているのに、
京都では公開されない映画が沢山あるのが分かった。
京都はなんて田舎なんだ、なんて映画後進国なんだ。
大阪では上映しているみたいなのに…。
と、京都を呪った。
でも、その頃学生運動の余波がまだ生々しいころ、
京都の映画館、2番館あたりでは、ずばり「ベトナム」というタイトルの
映画が上映されていたり、
あとATG系の日本映画「エロス+虐殺」「少年」「薔薇の葬列」「無常」とか、
「心中天の網島」もあったか、
完全に学生向けの映画にシフトして上映していたのだった。
今思えばある意味で、京都は学生文化の発信地だったのだと思う。
吉田喜重の映画なんかは見ておくべきだったかなと今でも思う。
(18禁だったから無理だったけど)
日本映画には興味がなかった。
当時日本の映画会社は5社あり、5社協定というものがあり…、
というのはまたいずれ別の機会に。
そういう、映画を見狂っているうちにヴィスコンティの映画にも出会った。
はじめに見た「地獄に堕ちた勇者ども」は
友達を無理やり連れて行って見た。
客席はガラガラで、大丈夫かこれと思った。
見終わって、友達に申し訳ないと思った。
こんな映画は友達連れで見に来るもんじゃなかった。後悔した。
だけど、自分の中ではすごくショックで、二律背反が起きていた。
この映画を好きと言っていいのだろうか。
いけないと思う。だってナチの映画なんだもの。
でも、どうしても惹かれるものがある。
この気持ちはどうしたらいいんだろう。
「ベニスに死す」を見て答えが出た。
ああそうか、私はこっちの人だったんだ。
いろいろ映画を見てきたが、自分の好みというものが分かった。
こういうのが好きなんだなと。
で、考えた。
もういろいろ別に好きでもない映画は(話題作でも)見ない。
お金も限られている中、なるべく自分の好みに合う映画、
好きそうな映画だけ見よう。
自分の思い込みの激しさ、
すごく偏った嗜好、
ひとりよがり、
全部この頃から顕著になってしまった。
我ながらいかんな。
全部ヴィスコンティのせいだ、どうしてくれる。とは冗談。
つけくわえ
70年代、映画が衰退していた時期だからこそ、
実験的な映画も、意欲的な映画も作られたと思う。
監督はがんばり、映画人もがんばった。
みな、衰退していく映画芸術、あるいは娯楽、
それを憂えて必死になって、模索していた時期。
だからすごい映画があの時期集中した。
と思っている。
それと、ロードショーではガラガラでも、
2番館、3番館はいつも満員だった。
お金のない学生は、そっちの方でわんさと
見ていたのだ。
ちなみに、「地獄に堕ちた勇者ども」は
2番館にも、母を連れて見に行った。
やっぱり、一人ではまだ行けなかったころだし
誰かと一緒でないとこわかったし。
すごく満員で、立ち見も出ていた。
母も迷惑だったろうな、あんな映画を見せられて…
ヘルムート・バーガーのことは、
アラン・ドロンだとばかり思っていたと言っていた。
つづく
追記
シネフィルという言葉を使っているが、
私はそんなたいそうな肩書の者でもないのだけれど、
ちょっと映画狂いしていた時期があるので
おしゃれっぽく使ってみたのです。ご容赦を。

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