あのころ、まだ悩みも何もなかった。
自分の自由にふるまって、それでいいと思っていて、
ほかに何も考えてなかった。
あのころ、彼に無邪気に夢中になっていた。
ボストン・ワールドのあと…
ブログにも書いていた。
でも、彼の俺様体質については分かっていた。
露悪的な部分についても把握していた。
そしてそれも魅力的に、いやそれこそが磁力を持って、
とても興味深く私には映ったのだろう。
興味のつきない対象として映ったのだ。
彼のことをネットで色々探すようになった。
ほかの人は、この特殊な人物について、
どのように思っているのか、どのように映っているのか。
彼が圧倒的なビジュアルで人気なのはとっくに分かっていたが、
それだけでなく彼の内面というか、本質を
どうとらえられているのか、どうとらえればいいのか。
興味の対象を分析したいという気持ちがむらむらと湧いて来た。
そして、そんな中で前年の暮れの、全日本の事件のことを知った。
2015年だったか…もう忘れたが…
羽生選手が村上大介選手選手と練習中に接触をしたという事件だった。
私はこのことを、全日本選手権の時にはまったく知らなかった。
知らないまま翌年の世界選手権を見て、
そして、その年の5月か6月かころにそれを知った。
中国杯での事件のことがあったから、
村上選手との衝突は、またかと非難され、
羽生選手が攻撃されているのをその時はじめて知った。
羽生選手が村上選手にわざと衝突したと言われていた。
彼に中国杯での事件がある以上、
私もまたかと思ったし、不注意と言われても仕方ないと思った。
でも私は今でも羽生選手がわざとやったとは思っていない。
この時から、私はもう無邪気に羽生選手を追いかけられなくなった。
ある一定の人が…多くの人がわざとだと言い、
それは確定的なこととされていた。
未必の故意という言い方もされていた…
そこからとんでもないような羽生選手への非難と攻撃があった。
人の書いたことを無断引用するなということだが、
私は腹を立てているので、もう無断で勝手に書いてしまう。
信じられないほどの書き方がされていた。
肝がつぶれるほどの、それは残酷な残酷なものだった。
羽生選手につぶされた選手がたくさんいる、
つぶされて悔しい思いをしている選手のファンがたくさんいる、
など。
既定事実として語られていた。
私は彼に同情したのだろうか。
そうではない。
私は、完全な人間はいないという考え方で今まで生きて来た。
誰が誰を非難しても、その人だって完全な人間ではないはずだ。
ましてや、羽生選手は私から見ても欠点の多い、
いろいろ特異な人間だと感じていた。
そんな人間が、あれこれ重箱の隅をつつくように、
攻撃されていた。
攻撃する人々は、自分は完全無欠で、絶対的に正しく、何も欠点がないから、
完全な人間だから、不完全な人間の間違いを攻撃するのだろうか。
完璧な人間だから何を攻撃してもいいと思っているのだろうか。
道徳に悖ると言って非難する人は清廉潔白な聖人君子だからなのだろうか。
それが完璧な人間のすることなのだろうか。
自分たちだって間違いを犯すことや、判断を誤ることや、
勝手な憶測で物事を考えたりしたことはないのか。
生まれてこのかた、何も間違いを犯さず、正しいことだけを
して来た人なんているのか。
決してどのような誰が羽生選手よりすぐれた人間性を持っているとは
言えないのが人間なのではないのか。
誰が誰よりすぐれた人間ということはないと思う。
誰だって間違いを犯すことはあるだろう。
だから誰が誰よりすぐれているとか劣っているとかはないと思う。
みんな人間である以上、誰でも同じだと思う。
誰が一番正しくて正しくないのか、そんなことは言えないと思う。
みんな間違いを犯し、恥を重ねて生きているのではないのか。
自分は正しいと思っていても、
ほかから見ればそうは見えないこともある。
それが、まるで自分たちが絶対的に正しく、
間違いを犯したこともまったくなく、
それだから自分たちの方がえらいという態度で、
羽生選手は悪くて正しくないから
彼のことならどんなことでも言ってもいいと
彼が悪いと非難する。彼の欠点をあげつらう。
自分たちには何一つ非はないから
彼をいくら非難してもいいのだと言わんばかりに。
羽生選手がえらそうぶったり、思い上ったりした行動をするのは、
彼自身のことで、他人より自分自身に注意が向いていて、
自分自身の防御のためだからだろう。
そうすることで自分を鼓舞し、弱みをみせたくないためで、
強がりや言い訳を多用する。
自分がえらいと思っていて大きく見せようとしているのではない、
気を使っているつもりなのだ。
それが注目を集める人間の誠意で義務だと信じているのだ。
自分が誰かよりすぐれていると思っているなら
本当に自分が一番えらいと信じているなら、
時におろかで浅はかに見られる強がりなどしないだろう。
羽生選手は目立つところにいるから、それが余計目立つのだ。
彼は一挙手一投足がマスコミに報道され、
その発言の逐一が全国的に知られる。
そんな位置にいる。
それを、揚げ足を取らんばかりに凝視して、
叩こうと待ち構えている人がいる。
誰も知らないような動画をわざわざ探して来て、
彼が何を言っても、どんなことをしていても叩こうとする人がいる。
私は先回りして、彼らが食いつきそうな彼の発言や、
行動をわざとネガティブに書いて、
それが羽生結弦なのだと、それが彼の特質なのだと、
たぶんどこかにいる彼らと、手探りで、戦っていた。
誰に向かって書いていたのだろう。
いったい何に向かって戦っていたのだろう。
多分非難するような人たちに対して、手探りで、必死になっていた。
それが、私なりの羽生選手へのエールだった。
何をやっていたのだろう。
無邪気に手放しで彼を称賛している人がうらやましかった。
その一方で、羽生選手の狂熱的なファンが、
彼を批判する意見を封じ込めるような暴挙をしている、
という事実があった。
羽生選手を少しでも非難する意見があれば、
そのツールを叩き潰す、
そういう過激なファンがいた。
そのために羽生選手のファンには悪質な人がいることが分かった。
羽生に夢中なあまり、彼への少しの批判も受け付けようとせず、
周りが何も見えなくなっている人たちらしかった。
私は疑心暗鬼に陥った。
何を信じていいのか分からなくなった。
もしかしてあの人が?と、羽生のファンを信じられなくなった。
羽生選手のファンの中に悪質な人がいる、それが事実だ。
彼らの悪質な行為は、ほとんど選手本人を貶めているのと同じだ。
彼らもまた、自分だけしか見えなくて、
自分ばかりが正しいと思い、
自分と同じ考えでない人間は許せないのだろう。
要するに、他人の意見を受け入れられない不寛容な人たちなのだ。
羽生選手を攻撃する人たちも、また不寛容なのだ。
自分たちが絶対的に正しくて、少しでも常軌を外れれば
自分たちを上と考え、それよりも下の人間を許さない、
不寛容な考えなのだ。
人に優劣をつけて、自分たちは清廉潔白な優であるとし、
優である自分たちの考えに添わない劣と思う部分を許さない、
不寛容な人たちなのだ。
ただ、羽生結弦という存在は、これほど大きいものなのだ。
もう後戻り出来ないほど、有名で巨大な存在になった。
逃げも隠れも出来ない人間なのだ。
彼の一挙手一投足は、ファンもそうでない人も、非難する人も、
普通の人も皆が見ている。知っている。
その彼が、自分を自覚して、その立場を理解しないはずがない。
大きくて重い存在であることをいやというほど承知のはずだ。
だからこそ時には彼はそんな位置にいる自分の確認作業を、
尊大と思われようと常に行いつづけなければならない。
それでもなお彼は、そんな重い重圧のかかる存在でありながら、
そうであるよりも、
自分だけと戦い、
自分がさらに自分以上になることだけを考えている。
何も知らぬげに
エキシでは無邪気に自由に振る舞い、屈託のない涼しい笑顔を見せ、
むらがるマスコミにサービスし、カメラに愛嬌を振りまき、
饒舌に語ってくれる。
あっぱれな男ではないか。
私は彼は露悪癖を克服したとみている。
…
そうこうしているうちに、私は私のことで手いっぱいになり、
もうあまり羽生選手について深く考える機会もなくなりそうだ。
もうあまり彼に時間が取れないかもしれない。
けれども、また機会があるなら、今度からは、これからはもう、
心置きなく、何のためらいもなく、
羽生選手をたたえて、称賛して、褒めちぎって、
その素晴らしさ美しさを存分に書きまくりたい。
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ただ私は羽生選手に完全に従属するつもりはない。
100%彼を信奉する信者になるつもりはない。
彼に批判されるべきことがあれば、批判されるべきだろう。
何をしても彼なら許せる、
彼なら何をしてもいい、彼のどんなところでもいい、
そんな態度は自分が目くらであって、
羽生選手に呑み込まれ、自分を失っているということだ。
私にはそれは出来ない。
私は自分を失うことはしたくない。
隠された十字架、水底の歌、あれらは結論が強引すぎるとして
じゅうぶん批判されて来たし、
その結論を信じている人はあまりいない。
立派な人が怨霊説を非難してもいる。
あまりにも牽強付会だからだ。それを私は理解している。
そして私はそれをエンターテインメントとして
享受しているに過ぎない。
梅原信者として、彼を信奉しているわけではない。
ただ梅原氏の在り方として、
その受け売りではないありきたりではない独自の見方が尊敬出来るから、
彼に一目置くのだ。
ひとりひとりがこの世にただ一人の人間として存在しているのだ。
それを捨てて、誰かの配下に下ったり、依存してしまったり、
信奉したりして、誰かを完全無欠の聖人君子のような存在として
信者になってしまうことは、人間として私のしたいことではない。
私は私として、存在していたい。
これだけは私の譲れない一点だ。
そして私は誰の指図も受けない。
私の思っていることが、自分でまったく正しいとは思っていないし、
間違いもあるだろうし、未熟であることも承知している。
それでもたとえ間違っていても、正しくなくても、未熟な考えであっても、
拙くても自分の考えで、自分の思うことを書く。
誰の強制も指図も受けたくない。

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