羽生の接続詞に『のみならず』が増えていたぞ。
羽生氏のことを歯の浮くような言葉で大讃美しているうちに気持ちが悪くなって来た。
だんだん冷静になって落ち着いてみると、
いろいろと突っ込み所の多い選手だから
どうしてもボロカスに言いたい気持ちが抑えられなくなる。
…
その前に、高橋大輔元選手について、下げてみる…。
ああ…なんかすごいこと言いだした?…大丈夫かな…
…というよりも、サンプルとして高橋が現役の時、
彼に対してどういう気持ちでいたか、ちょっと回想してみたいのだ。
いつか書いたこととかなり重複するだろうが…
(ババアの回想だから長くなるよ…)
今は、私は高橋については、もうテレビに出て来るな、
カミカミの解説は聞きたくない、おまけに間違いが多い、
お前はどこか劇場にこもって踊りでも踊ってろ、
と思っていたりする。
…だが、高橋が引退する時、彼についてあれこれブログで書き、
そして、
京都新聞の高橋の引退記事の切り抜きさえも大事にファイルの中に入れていた。
そのころ滅多に新聞を切り抜いたことなどなかったのに、
高橋の引退記事はわざわざ切り抜いて、持っていた。
切り抜いたことは忘れていたけれど。
高橋が大怪我をした時、彼は京都の病院で手術を受け、
そこでリハビリをしていた。
その時、高橋を担当した医師に京都新聞が取材し、
高橋についての記事にしたものだろう。
高橋の引退記事は、「集客力は抜群」
「女子の陰に隠れてきた男子の注目を集め、黄金期を築き上げた」
「飾らない性格が女性の心をつかんだ」
「海外のトップ選手も一目置いた」
「実力と人気を兼ね備え、世界から愛されたスケーターだった」
などと書かれ、引退を惜しむ内容だった。
ふと、羽生選手が引退する時、こんなに書いてもらえるのだろうか、
いつも大口を叩いて周囲を戸惑わせる所もあった選手だったとか、
自己アピールに余念のない選手だったとか、
才能はあったが、攻撃的で、
世界からうざがられていた選手でもあったとか書かれるんじゃないかと
いらん心配をした。
私が初めて高橋大輔を認識したのはトリノ・シーズンだっただろう。
トリノ選考のごたごたの時、高橋の方がいい、と思っていたから、
そのシーズンから高橋を知ったのだ。
初めて日本にイケメンの実力ある男子選手が現れたと思った。
(本田君ごめんね。足は長かったんだよ…演技は素晴らしかったんだよ…)
トリノの男子枠はわずかに1枠、高橋と織田がその枠を争って、
ゴタゴタのあと、最終的に高橋が選ばれた。
枠が1枠に減ったのも、その前年のワールドで本田が途中棄権、
高橋一人に枠取りの重圧がかかってプレッシャーで失敗し、
枠を減らしたのだと言われていた。
そのことはあとで知って、その時は知らなかったのだが、
1枠で織田と高橋なら、絶対に高橋が行ってほしい、
などと考えていたことを覚えている。
織田は泣いてばかりで好きになれなかったからだ。
トリノで、ショートで高橋は4位か5位だったかで、
急にメダルの可能性が出て来たものだから、
日本では高橋に期待がかかった。
けれどもフリーでザヤックに引っ掛かり、最終順位は8位だったか…。
その時高橋は、自分のその順位には全然満足出来ていない、と言った。
彼にとっては、
世界で8位は自分の妥当な順位ではないとの認識があるのだと思った。
もっと出来る、もっと上のはずなのだと思っているのだと思った。
トリノのショートで滑ったロクサーヌを、
次のシーズン、ボーカル入りに焼き直してエキシで彼は滑った。
そのエキシのロクサーヌは、素晴らしいものだった。
観客への煽りが抜群で、彼は天性の演技者なのだと感じた。
そのころから高橋に期待をするようになった。
でも何度も見ているうちにだんだん濃すぎる気がして来て、
ボーカルなしの、煽りなしのトリノのショートをレコーダーに
残して何度も見た。(エキシのロクサーヌも残しているけど)
それから覚えているのはオペラ座の怪人で、
これは忘れられない。
いや、演技自体は多分忘れたと思うが、
高橋がオペラ座をやった時の昂揚感が忘れられない。
「あとは自慢のステップで駆け抜けるがいい!」
西岡アナの実況とともに、それが強烈に記憶に残っている。
そのシーズンのオペラ座を何度も見たが、
私が好きだったのは、最後のステップへ行く前に、かなり力を使い果たし、
ステップ前のスピンが今にも止まりそうになってしまったオペラ座。
スピンがほとんど回れていなかった。
けれどもそこから最後の力を振りしぼり、
ステップへ挑んでゆく高橋が、
もっと完成され、スムーズに演技をしたオペラ座もあったが、
それよりも、ヨレヨレになりながら最後のステップへと挑んでゆく
高橋の姿が最高にドラマチックで、心が躍った。
だからあの止まりそうなスピンをした時のオペラ座が、
私のベストのオペラ座だ。
高橋のジャンプはふわっと上がって、重力を感じさせない、
力みのない離氷で、それが心地よかった。
何度もこの人のジャンプの離氷を見るたびにほれぼれしていた。
でも、着氷はあまりきれいではなかった。
いつも着氷がぎりぎりで、きちんと流れず、詰まり気味で、
せっかく離氷がきれいなのに、それをいつも残念に思っていた。
それからヒップホップスワンを演じた時も、エキサイトした。
いつも実況が世界が震撼する衝撃のプログラム、
などと紹介していて、
私はあのステップをワンカットで流してくれるカメラをずっと求めていて、
なのにいつもカメラが切り替わり、
全体の動作を見たいのに足もとを写すカメラに切り替わったり、
指差しの途中で切り替わったりして、
いつも残念に思っていた。
とうとう満足のいくカメラワークであのステップをとらえた映像を
入手することが出来ず、それが心残りだった。
そして私は相変わらず、
高橋を短足だの、胴長だの、チビだのと滅茶苦茶言いまくって、
高橋のステップは足が短いから小回りが効いて、
あんなに小刻みに踏めるのだなどと言っては喜んでいた。
高橋が怪我をした時、オリンピックシーズンでなくてよかった、
と誰もが言った。
高橋はその時、4回転を2回入れる準備をしていた最中の出来事だった。
(実際にはアクセルの練習中の事故だったが)
そしてバンクーバー・シーズンで披露された「道」は
素晴らしいプログラムで、途中のステップシークエンスで
綱渡りの動作や、ボールを操ったりする動作が入る、
高橋の演技力が最大に生かされたプロだった。
このころから高橋の演技にはうまい、素晴らしい、見事、
そういう感想ばかりになった。
バンクーバーで、日本人初のメダルを獲得した時、
確かに嬉しかった、が、でもなぜか、
なぜ4回転を2度飛んだプルシェンコが金ではないのだろうと、
そちらの方にばかり興味が向いていた…。
けれどそれからも高橋のプログラムは毎年どんなだろうかと楽しみだった。
今年はどんなものを演じてくれるのか、
シーズンが始まるたびに彼の新作に期待した。
ある年にはマンボをやっていた。
相変わらず見事に滑りこなし、客を沸かせていた。
けれども、ある時、ちょっとくどいかな、と思い始めた。
いつ頃からか、次第に妙に冷静に、
客観的に高橋を見るようになっていたのだと思う。
くどいと思ったということは、
もう高橋に対して、熱狂的に見る目が醒めていたのだろう。
ある年には彼はブルースを演じた。
私の好きなウソワ・ズーリンが素晴らしく演じたあのブルース、
高橋ならどんなに滑るのだろうか、
彼なら上手に滑りこなすだろう、と思ったことを覚えている。
そして、期待通り彼はとても素晴らしく、
完璧に、見事にブルース・フォー・クルックを滑った。
つくづく、すごい選手だと私はただひたすら感心していた。
けれどもそのシーズンの世界選手権で、高橋の演技を何も覚えていない。
彼が何位だったかも覚えていない。
このころから私は自分の体調不良のため、
何にも興味を持てず、
したいことも何も出来ず、苦しくて、自分のことに精一杯で、
スケートどころではなかった。
京都にフェルメールが来ていたが、それも行けなかった。
奈良に阿修羅像が特別展示されているのにも、
行きたかったのに行けなかった。
そしてスケートの試合は全部録画していたものの、
見ていたはずなのに、2、3年ほど何も記憶にない。
そのうちソチ・シーズンになった。
そのシーズンには自分の体調も少しは持ち直したものの、
記憶はあやふやだ。
高橋がグランプリファイナルに進みながら、
怪我で欠場したことなどは、一切知らなかった。
(羽生もいたが、彼のことも殆んど記憶にない)
全日本で高橋は確か5位で、それでもソチに選ばれた。
今思うと、怪我をしていて満足な演技が出来なかったのだろう。
私は怪我のことを知らなくて、
高橋は4回転がもう飛べなくなっているのだろうと思っていた。
ただどうせ行くなら、高橋に行って欲しいと思っていた。
高橋にはオーラがあり、カリスマがあったから。
あとで、高橋のファンが、ほかの二人には悪いけど、
大ちゃんが行くのが当然よ、大ちゃんしかいないでしょ、
みたいなことを言っていて、高橋のファンはおそろしい、と思った。
もう少し遠慮がないのだろうか。
高橋ファンのえげつなさをその時少し感じだ。
いや、そこまで言うほど、のめり込むほどの激烈な熱意に驚いた。
私は高橋に対してそこまで熱心ではなかった。
そこまで思いつめるほどの選手とも思っていなかった。
高橋の最後のプログラム、ビートルズは、私には駄目だった。
ビートルズは私の聖域であり、
たとえ高橋といえど、私にとっては不満だった。
イン・マイ・ライフで、
ああ、これはジョージ・マーティンがピアノを弾いていて、
少しピッチを早めてチェンバロのような音色を狙っているんだよな、
とか考えると、もう高橋の演技は上の空で、
そんなことばかり考えている。
高橋でさえ、私のビートルズへの思いを超えられないのだと感じた。
それでも高橋の引退の時は、それを惜しみ、限りなく寂しい思いになった。
あのころ、スケートは真央と高橋にしか興味がない、と書いていた。
日本選手ではほかには全然興味がなかったのだ。
ただ、所詮はお茶の間人だから、そんな思いもやがてはどこかへ行った。
ごく自然にフェードアウトしていった。
思えばきっと私が高橋に一番最高に熱狂していたのはやっぱりオペラ座のころ、
高橋を短足・胴長と言いたい放題に言っては楽しんでいた、
あの時が一番高橋に熱狂していた。
いつもそういう風にけなしまくっている時が、
私が我を忘れてその選手にもっとも熱狂している時なのだった。
スタビスキーのことを、「あんなに踊れるブタを私は知らない」
とか、めちゃくちゃなことを書いていた。
高橋を短足などと言わなくなって、
ただひたすら素晴らしい、見事、いつも楽しみ、さすがの演技、
と、褒めるだけになっていった時、
もうすでに高橋に対してかなり醒めていたのだろう。
そこまで突き放して見ていたのだと思う。
それは別にそこに羽生が出現して来たからでもない。
ただ単に、高橋に対してもう熱狂しなくなり、
さめた目で見るようになり、
彼の演技がせわしない、などと思い始めて、
そういう風に思い始めたということは、
高橋に対して、
熱烈な高橋ファンのようにはのめり込むことはもうなかった
ということだろう。
逆に一人の選手に対して、
あれだけのめり込めることが不思議でならなかった。
オペラ座は、かっこいいとか、ステキだとかいう、
高橋のパーソナリティでいいと思っていたわけではなかったのだと思う。
演技後半にジャンプを5本入れて来るという高難度、
そして最後に怒涛のステップというドラマチックな演技構成に、
つまりはモロゾフの戦略に嵌っていたのだろう。
高橋自身は、自分にフィットするパーソナリティでは必ずしもなかったのだろう。
ただ彼の演技力のみをいつも堪能していた。
だから熱狂が醒めてみたら、彼に対してクールな感情になっていったのだろう。
移り気で、気まぐれで、飽きっぽくて醒めやすい、
上っ面だけ見ているお茶の間人の特有の(私だけかもしれないが)反応だ。
もし現地で生の高橋の演技を見ていたなら、また違ったかもしれない。
高橋ファンのようにもっと熱狂していたのかもしれない。
今でも彼には多くのファンがいて、今でも熱狂的に支持されている。
高橋を今でも忘れずにいて、彼に熱狂し続けている。
ということは、それだけ素晴らしい魅力が彼にあったからだろう。
だから高橋にそれほどの魅力があることは事実なのだろう。
何年経っても、いつまでも忘れられない人がいるくらいに、
強烈な光を放った選手だった。
ただ、私にはその魅力はもう終わってしまった。
引退してしまえば私にはもう終わった人なのだ。
もう何の興味もない人になってしまい、
高橋は過去の人になった。
飽きっぽいお茶の間人の私には、
これがいくら浅薄と言われようと、正直な自然な反応なのだった。
真央のことも上手にさよなら出来た。
もう何の拘りもない。
たからもう、また真央がいろいろ話題になっていると、
またか、もういいや真央は。今さらもういいじゃん、
もう終わった選手なんだからとあっさり割り切っている。
自分でもこんなあっさり忘れ去れるのかと驚いている。
あんなに熱心だったつもりなのに。
残酷だね。薄情な人間だ。なぜだろう。自分でも分からない。
でもそれが自分の事実だ。
もし羽生が引退して、もしかして解説に出て来ようものなら、
だらだらと無意味なことばかり喋ってうるさい、
お前はもう終わった人なんだから無駄な自分語りはやめろ、
テレビに出て来るな、
なんて思っているのだろう。そんな気がする。
テレビの前のパフォーマンス。
その時々に心を躍らせてくれる選手たち。
輝く人たちにみとれ、それにひと時熱狂して、
そして次の輝く人たちに目を移す。
それがお茶の間の前の人間の、ささやかな日常の楽しみ、
せんのない日常を彩ってくれる人たち。
誰に対しても同じ反応なのだと思う、きっと。
全方位の熱心なスケートファンに怒られそうだ。
自分は熱心なスケートファンではないのだろう。
ずっと長く見つづけているけれど、
テレビの娯楽として見ているだけで、深く掘り下げて、
突き詰めてスケートという競技を真剣に考えたことがないのだろう。
上っ面を眺めているだけの傍観者なんだろう。
ルールがどうとか、ジャッジに好かれているとか嫌われているとか、
プロトコルがどうとか、
スケートスキルとか面倒なことはどうでもいいんだ。
(プロトコルはちょっとは読めるようになったけど)
薄情でごめんね。ほんとごめん。
無責任でいいかげんだね。
スケートなんか語る資格はないんだけど。
…
だけど無責任でかえっていいかもしれないとも思ったりもする。
あまりのめり込みすぎたり、詳しくなりすぎたり、真剣になりすぎると、
ここがおかしいの、組織を批判したりの、連盟がどうのこうの…、
素人なのに評論家もどきが出来上がる。
私はあくまで素人としてスケートの上っ面だけ見て淡泊に楽しんでいたい。
ひとりの選手に拘りすぎると、感情が激烈になっていって、
おかしくなって来るだろ。
不必要に過敏になってヒステリーみたいになるよ。
それ以外見えなくなって、批判を許せなくなったり受け付けなくなる。
いつまでも真央真央言っていたら、
いつまでも真央可哀想ストーリーにしがみついていたら、
いつまでもそれを引きずっていたら、おかしくなると思うんだ。
だから羽生に対しても、ちょっと引いてみたりするんだ。
相変わらず動向は追っているけれど。
でも自分の精神の均衡を大事にしたいからね。
自分の興味はスケートだけではないからかな。
だからごめんね。

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