ルキノ・ヴィスコンティ生誕110年
(完全ネタバレ)
「イノセント」はルキノ・ヴィスコンティの75年の遺作だ。
日本では1979年、「ルードウィヒ」よりも先に公開された。
この映画を見た時の、特にラストシーンの衝撃は計り知れない
ものがあった。
これがラストなのか。このような終わり方をするのか!
ヴィスコンティとは、なんという監督なのだろう。
やっぱり彼は唯一無二の人だった、
もうこんな監督は二度と現れないだろう。
当時私はそう思った。
そして、映画を見たあと、当時つけていた映画ノートに
この映画の感想を書いた。
だけれども、そのノートがどこを探しても見つからない。
今、もうこの映画のすべては思い出せない。
だから、この映画について、私はサイトでもブログでも
ひとことも触れることはなかった。
そして今もう一度この映画を見たとしても、
初めて見た時の衝撃そのままをまた同じように共有できるとも
思われない。
同じ感想を抱くとも思われない。
だからもう一度これを見ることもなく、語ることもなく、
今まで何も書かずに来たのだが、
物置を家探ししていて、この映画の感想を書いたノートを見つけた。
私は、そこにとても立派な「イノセント」の感想を
書いたと思っていた。
以下、その時の「イノセント」の感想だ。
***************
ルキノ・ヴィスコンティの遺作は自国の19世紀末デカダン作家、
ガブリエレ・ダヌンツィオの「罪なき者」の映画化である。
フランス語で書かれたドビュッシー作曲の劇「聖セバスチャンの殉教」の
作者として私は記憶しているが、文学全集に作品がのることもまれになった
いわば昔の流行作家である。
その流行おくれの作家をよくヴィスコンティがとりあげたと思う。
ただ美丈夫という印象のみで登場するフィリッポ・ダルボリオ
(妻の愛人)にヴィスコンティは或いは、官能に殉教した聖セバスチャンを
すかし見ていたのかもしれない。
立派な映画である。
妻がいながらも他の女に自堕落に血道をあげる貴族の男、
そして貴族の誇りゆえに妻が男を作るとそれを許せない男。
妻の男(フィリッポ)をにくみ、妻の生んだ彼との子をにくみ、
そのにくしみのために自分の精神までをおとしめていく男。
貴族の誇りが、妻のあやまちを、妻の生んだ子が存在する、
ということを許さないのだ。
貴族の誇りとは彼、トゥリオのエゴと退廃にイコールである。
それでもなおかつ、トゥリオを誰が批判できようか。
母に、妻の妊娠を告げられる。
トゥリオはそれが自分の子でないことを知っている。
喜ぶ母の言葉を上の空できき乍ら、トゥリオはいつか頬に
涙を伝わらせているのである。
トゥリオはある時、フェンシングのクラブでフィリッポと
対したことがあった。
全裸でシャワーをあびるフィリッポから、目をそらすことが
できないトゥリオ。
見事な描写である。
その若く、美しい作家の「男性」が、トゥリオの誇りを、即ち
彼の全存在をずたずたに傷つけたのである。
何と哀れな、バカな、エゴしかしらない男なのだろう。
二時間、映画はこの男を見つめてきびしく、鋭い。
赤ん坊を殺さずにいられないまでに追いつめられた男の
心の修羅を見つめ尽くすのだ。
ダヌンツィオの作品はひとつの発起点だったかもしれぬ。
物語のなかにヴィスコンティ好みの主題のあるのを、
見つけたのだろう。
ただそれだけで映画化したのかもしれぬ。
しかし、「魔の山」の映画化、あるいは「失われた時を求めて」
の映画化よりもむしろ核心を深くえぐっているのではないかと思われるのだ。
小品、とは言えぬがいつものヴィスコンティ役者をすべて廃して、
つまり言うならば寓意性をつよめて、ヴィスコンティ的世界を離れて、
というような印象があるにも関わらず、これはあまりにも痛切に
ヴィスコンティであった、ことが驚きだった。
あるいは「イノセント」のむこうに「聖セバスチャン」を
彼は見ていたのかもしれないのだ。
無論、セバスチャンをヘルムート・バーガーで、
そしてディオクレティアヌスこそ自分自身として━━。
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すみません。もっとましな文章を書いていたと思っていた。
この時、ダヌンツィオを聖セバスティアヌスの作家としてしか
知らなかったので(今でもそうだが)、というより、
その聖セバスティアヌスの作家をヴィスコンティが
取り上げた、という嬉しさ?からやたらとこれを強調しているのだ。
(最後の一文は完全に妄想入ってる…。恥ずかしー)
しかも言っていることが「ルードウィヒ」とほとんど同じ。
まあ、ヴィスコンティはこういう風に、一人の人物の内面を
とことん掘り下げ、冷徹に描写する作風であったので、
同じような印象になってしまうのだろうが。
そして寓意性をつよめて…とか書いている意味も自分で書いておきながら
もうひとつ分からない。
この映画をヴィスコンティは始め、例によってアラン・ドロンと
ロミー・シュナイダーで撮ることを希望していた。
だがドロンの出演料が高すぎて断念、仕方なくあのような
キャスティングになったという経緯がある。
決してヴィスコンティがもともと望んだ配役ではなかったのだ。
そのことを言いたかったのかもしれない。
ただ、この駄文で重要なことがひとつ書いてある。
ジャン・カルロ・ジャンニーニ扮する主人公が涙を流す、
という場面だ。
この場面を私はもう忘れていた。
多分のこの涙は、「山猫」でバート・ランカスターが
流した涙に通じるのだろう。
主人公が、自分の自尊心やプライドをずたずたに
引き裂かれてしまう、重要な場面だ。
そこをきちんと押さえておいたことだけは自分ながらえらい。
この映画の主人公、トゥリオ(この名前ももう忘れていた)は、
呆れるほどのエゴイストで、若妻を顧みず、よそに伯爵夫人を
愛人にしていて、彼女に夢中になっていて、
妻の前でも平気で彼女のことを口に出す。
妻のことは「妹のように愛している」といって、
妻とは肉体関係から遠ざかっている。
妻は自分を顧みてくれない夫に悲しみにくれ、寂しい思いを
している。
そんな時に妻はサロンで若い作家と知り合う。
そしていつか彼と惹かれ合い、関係を持ち、彼の子を宿す。
主人公は妻とは久しく関係を持っていなかったので、
妻が妊娠した時、それが自分の子ではないことが分かる。
妻が浮気をしたと知ったとたん、彼は今までまったく関心もなかった
妻に対して猛烈な嫉妬を抱き、妻の不実を責め、妻の相手を憎み出す。
だが妻の相手は病であっけなく死んでしまう。
それでも主人公の嫉妬とエゴはおさまらない。
妻を責め、子供を堕ろせと迫るが、妻はゆずらない。
彼女は夫に従属することをもうやめ、自分の意志を持ち始めたのだ。
妻はこの子はあなたの子ではない、私の子だと言って、
子を産む。
妻の裏切りと、不義の子をどうしても許せない主人公は
雪の降る寒いある日、赤ん坊の眠る部屋の窓という窓を
開け放し、子供を凍えさせて死なせる。
妻はもうあなたを愛してなどいないと突き放す。
主人公は愛人の伯爵夫人のもとへゆく。
だがそこでも主人公のやり場のない怒りと
エゴによる屈辱感はおさまらない。
愛人の美しさも彼の慰めにはならない。
主人公は突然銃を取り出し、愛人の目の前で
自殺をしてしまう。
愛人の女は仰天し、慌てて衣服を整え、
そしてまるでこの出来事は自分には何の関わりもないと
言わんばかりに、そそくさとその自殺の現場から逃げ去る。
その彼女のそそくさと道を走って逃げてゆく、
その後ろ姿がストップモーションになり、それがラストシーンだった。
ずいぶん昔に見た映画なので思い違いや、記憶違いが
あるかもしれないが、私の見た「イノセント」の記憶は
大体こんなものだった。
書いたとおり、「イノセント」の主人公はものすごいエゴイストで、
自分勝手な男だ。
妻を放り出して彼女には無関心、愛人に血道をあげ、
妻の前で彼女のことを平気で口にするという無神経さ。
だが妻の浮気を知ったとたん、彼女に猛烈な嫉妬を抱く。
それはしかし、妻を愛しているからでは決してなく、
自分のプライドを傷つけられたからだ。
彼は自分のプライドだけが大事な男なのだ。
最初に掲げた文の中で、妻の浮気相手の「男性」と書いているのは、
オリジナルでは男根、とはっきり書いていた。
照れるので訂正しておいたが。
下世話な話になるが、主人公が男のそれを見て、
その大小によって傷ついたのではないという気がする。
自分の妻が、男のそれのものになった、
自分の妻が男のそれに夢中になった、という、
そのことによって自分のプライドをズタズタにされたという
「イノセント」で一番重要な場面だ。
当時は検閲があって、当然ながらぼかしが入っており、
無修正ではその部分は見ることが出来なかった。
今は無修正版が出ているそうだが。
ただ、その肝心の部分が見えなくとも、
ヴィスコンティの意図することはじゅうぶんに伝わった。
主人公の自尊心はズタズタにされ、傷つき、彼は敗北したのだ。
だが男はどうしても自分の敗北を認められない。
赤ん坊を殺してでも自分の誇りを、全存在を守りたい。
彼は自死することによって自分の誇りを守り抜こうとした。
エゴイズムをあくまで通し切った男の成れの果て。
原作のラストは違うらしい。
けれども最初の感想ノートに書いたとおり、
この男のエゴイズムを誰も批判は出来ないのではないか。
誰でもエゴは抱えているのだから。
この映画の時、ヴィスコンティはもうかなり弱っていて、
車いすで(担架で)演出していたという話も聞いた。
ヴィスコンティの周囲の人たちは、
仕事をすることだけがヴィスコンティの生きる支えになっているからと、
ヴィスコンティに映画を撮ることを勧め、
本人の最も望む形ではなかったが、とにかく撮影にのぞみ、
仕事をすることでかろうじて生きていられたのだろう。
肝心のヘルムート・バーガーは遊びに行ったきりで寄り付かず、
自由のきかない体で作品に打ち込んだ。
私は、「イノセント」のこの一番重要な部分、
妻の浮気相手(マルク・ポレル)の全裸場面を見て、
この死にかけのジジイ(失礼)が、まだこんな凄絶な描写が
出来るのか、とただただ驚いた。
そしてラスト、主人公の愛人がいともあっさりと主人公を
捨てて、逃げ去ろうとするストップモーション、
主人公のエゴやプライド、誇りも何も、
そんなものは知ったことではないと言わんばかりの突き放した
ラストに呆然とした。
死にかけのジジイ(またもや失礼)がここまでするのか、
ここまで突き詰めるのか。
多分私はこの「イノセント」で、生涯ヴィスコンティを
崇拝しようと思ったのではなかっただろうかという気がする。
貴族の誇りなどもうとっくに時代おくれ、
そんなものにすがってどうする。
そんなものはとうの昔に捨てねばならぬものだった。
そんなものを持っていたとて何の役にも立たぬではないか。
自身、真の貴族であったヴィスコンティの貴族としての、
貴族に対するこの猛烈な嫌悪感情と、しかしそれでも捨てきれぬ誇り。
どんなに否定しようと、貴族である事実は否定しようもない。
この誇りと嫌悪のアンビバレンス、
ただそれがヴィスコンティのアイデンティティを支えていたのだと。
主人公の妻を演じたのはラウラ・アントネリ、
当時「青い体験」などに出ていた、まあポルノ女優だった。
(この映画で演技開眼、のちイタリアで大女優にのぼりつめる。)
その彼女を起用したわけを、ヴィスコンティは往年の自分の
お気に入りだった女優、エレオノラ・ドゥーゼに似ていたからだけ、
と言っている。
普通、貞淑な妻と奔放な愛人、という設定なら、
奔放な愛人がヌードになりそうなものを、
ポルノ出身だから貞淑設定のアントネリが脱ぎまくっている。
貞淑な妻がたわわな胸を放り出して脱ぎまくり、
でも別にベッドシーンがあるわけではなく(ヴィスコンティ映画なので)、
ただ脱いだままセリフを言うという、
それでもよくこれだけ時流に乗って裸を出したな、
死にかけのジジイなのに、
とまたしてもヴィスコンティのタフさに驚くのだった。
愛人の伯爵夫人を演じるのはアメリカ女優の
ジェニファー・オニール。
彼女はアメリカ人なので多分オリジナルは英語で撮影されたのだろう。
けれども映画はイタリア語だった。
オニールの口が、イタリア語のセリフに完全に合ってない。
そこだけが残念だった。

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