今日は息子の学校の運動会に出席しました
機嫌よく、楽しそうに
自分なりに頑張っている姿を見て
童心に帰り、元気をもらいました
やっと涼しくなり、何をするにも
いい季節の到来です・・・
そういえば、先日の水色のコートの女の子から
次は【鯛】の注文を頂きました・・・
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
鯛ってなんだ??って、思いますよね
私もそう思いました・・・
話を伺うと、劇団員さんらしく
ミュージカルや演劇で
主に地方を回ったりしているそうだ
『鯛がつれたぞ〜!!』のようなことを言って
それを振り回したりするのだろう
長さは3メーターほしい
中に空気を入れるのだ、とおっしゃる
この前は、ハスの花のような
アクセサリーはできるかどうか尋ねられたが
あれは一体どうなったのだろう・・
まあ、なんでもいい
タイだろうがハマチだろうが
なんでもお作り致しますよ・・・というより
本来が【ものめずらしがり】の
好奇心旺盛タイプなので
こんなおかしな注文にむしろ喜んで
乗ってしまう性質なのだ・・・
鯛に思いをはせていると
ちょうど、今日と同じ四半世紀前の
10月の1日を思い出した
勤めを辞した私は
まったく畑違いの喫茶店などのアルバイトを始めて
翌年4月からの予定になっていた専門学校に行くために
一人暮らしを始めたのだ
喫茶店の開店は朝の8時
少し肌寒い朝で、私の装いは黒い薄手のセーターと
赤地に白の仁丹玉のギャザースカートだった
吐く息が白く思えたのは
朝もやのせいだったろうか・・・
とにかく1からの新しい生活は
新鮮で楽しく、希望に満ちていた
その後、色んなアルバイトを掛け持ちしたが
そんなときに知り合ったのが
京都を地盤に全国的に活躍していた
ある演劇集団の人たちだった
何となく、流れで事務所に行った
バイトしかすることがなく、退屈だったのだ・・・
舞台衣装を縫ったり、服を染めたり
不気味な踊りに没頭している人たちを見て思った
この人たちは、輝いているな・・・と
一見怪しげな人たちだけど・・・
『学校なんて行かないで、うちで衣装を作らない?』
『ここで、衣装を考えれば
装苑大賞取るよりいい仕事ができるわよ』
そんな誘いを聞いたり、コーヒーを飲んだり・・・
気がつけば朝だった
とても不思議な一夜だった・・・
あのようなドキドキ感を味わうことも、今はない
過ぎた日のときめきを
思い起こしたいのかもしれない
大文字の画像を用意していたのに
トップページの説明どおり
パソコンが大変なことに・・・
一番の心配は、中に入っていた
たくさんの可愛い画像たちですが
気を取り直し
古ーい写真を引っ張り出してみました・・・
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
先日、取り寄せの手配をしていた資料が手に入った
雑誌やホームページのカタログを見るとき
一番気になるのが
『その他にもございます』という一言で
そう言われたら取り寄せなくっちゃ・・・と
すぐメールや葉書を送りたくなるたちなのである・・・
これは何故なのかと考えてみると、遺伝・・
あるいはこれまた古い記憶に
影響されていること多々あり・・・と思い当たり
ルーツとはすごいな・・・と実感した
先日ご紹介したRちゃんの
家からお嫁に来た曽祖母は文(ブン)さんというが
かなり頭のきれる人だったらしく
女性蔑視の明治において
すでに今の短大並の教育を受けていた
(ちなみに文さんは、私が生まれる前月に亡くなり
おまけに私の誕生した日がこの人と同じだったため
『生まれ変わりか!』と知能をかなり期待されたらしい
が、何の根拠もない、そのようなご要望には
いまだお応えできていない・・・)
嫁に来たものの、子を成さないうちに旦那が亡くなり
このまま里に帰すにはあまりに惜しいと
義父母が亡き旦那の弟で、文さんより8歳も年下の
私の曽祖父を、次の旦那にしてしまった
当プロフィール文中の
『私に古風な名前をつけた、宝塚の好きな爺さん』
とは、この写真の手前の人で
椅子に座っているのは私です
(写真が古すぎる!・・・笑)
可愛そうなのは、当の弟、金六さんである
当時まだ学生で、裁判所の書記をしながら
関学に通っていたが、絵描き、外国航路の船乗りなど
夢は他にも多々あった
水戸黄門や、吉良上野介を演じていた
【月形龍之介】という往年の名俳優を見ると
『お爺ちゃんの目を細くしたような人だ・・』
と思っていたので、まあまあニヒルな二枚目だった
お世辞にも美人とはいえない年上の古嫁を
親の勝手で押し付けられてしまったのだから・・・
嫁に隠れて密かに色んな資格を取り、計画を立て
いざ出発!というとき
いつも感づかれては、呼び戻された
文さんはこの年下の、二度目の旦那が
かなり気に入っていたらしい
ああだこうだ、茶番劇をやっているうちに
戦争になり、両親の田舎に帰り
いつかまた大阪に戻ろうと思いつつも実現せず・・・
私の知っている金六さんは
これ以降の80を過ぎた爺さんなのである
さて、その記憶・・・墨をササッとすって
【松本かつぢ】の絵のような可愛い女の子を
さらさらと筆で描くと、私に塗り絵をさせ
出来た作品を順番に襖に貼っては喜んでいた
後、鉛筆を何本もキレイに削って
セルロイド製の箱の中に入れてみたり
新聞を読んだ後、ペーパーナイフで切抜きをし
残った新聞紙をB5くらいの大きさに切り揃え
高く積み上げていた
切り抜きは小説や、漢方の本、医学書、
薬のサンプルなどで
B5判の切った新聞紙は何かというと
金六さん用の便所紙(失礼!)だったのである
当時、我家は
当然、水洗になる前の旧式のトイレであり
金六さんの部屋の前に、木の渡り廊下があり
ここからトイレというより厠(かわや)と呼ぶに相応しい
石の手水鉢(ちょうずばち)と
赤い実の南天の木のワンセットになっている
いわゆる落とし込み式のトイレに行くようになっていて
その落っこちそうに怖い四角い穴の右前方に
竹製の籠が二つあり
私たち女用の雪隠紙(せちんがみ・失礼・・・笑)と
そのお手製の、B5版新聞紙を入れたものが
仲良く並べられていた
割と贅沢な人であったので
節約のためでもなさそうであり、
この硬さの方が都合がよかったのか
あるいは単純に紙を切ってみたかったのか
今となっては不明だが・・・・(以上、余談・笑)
で、ハードカバーのかっちりとした重い本が
油紙で丁寧に梱包されて送られてくるのを見ると
何か面白そうなものだな・・・と
子供心に気になったものだ
若い日の夢を果たせないまま
居ついてしまった田舎暮らしは
元来勉強好きな、この人の知的好奇心を
満足させてはくれなかったのだろう
毎日毎日、切抜きをし、色んなものを取り寄せていた
来た本を開いて、スリコギで緑の草を潰して
いわゆる青汁にしてみたり、ドクダミやセンブリの類の
独特の匂いのする薬草を煎じてみたり・・・
墨と、クレパスと、鉛筆の芯と、油紙と、新聞紙と
薬草と、時に芳しい厠の匂いと
部屋を照らす日なたの匂いが
この曾祖父である爺さんの、私の思い出なのである・・・
小学校2年の秋、朝、学校に行くために
いつものように爺さんの部屋を通ったとき
普段と変わらぬ、手枕の格好で眠っていた
しかし、あの時、すでにあの世に召されていたようだ
虫の知らせか前夜、なかなか眠ろうとせず
昔話をやたらとしたがっていた
もう遅いから明日にしましょう
祖母たちが言い聞かせて眠らせた
それが最期になってしまった
若き日の夢は、何故かたくさん授かった息子たちが
それなりに果たし、文さんと同じ88歳で大往生し・・・
ある意味、幸せな人生だったようだ
『取り寄せるのが好き』という癖だけは
レトロな名前を名付けて貰った初曾孫の私が
しっかりと受け継いでいる・・・
犬のお散歩中
まだ青い柿がたくさん落ちています
柿を見ると、また思い出話がしたくなります
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
東京のデザインコンペに参加した若い日、東京を訪れた
一緒に出品した友人とセツを見学に行き
友人は京都に帰ったが、私だけ、荻窪の
小さな寺の離れで下宿していた、親戚のお姉さんの家で
4、5日滞在することにした
お姉さんは【母屋のRちゃん】と言い
曽祖母の里の家の子で4才年上の幼馴染
東京の大学を卒業後、秋葉原の出版会社に勤めていた
私は長女だったので、年上の人を見るとかまって欲しく
よくRちゃんの家にも遊びに行った
しぶしぶ習っていたピアノで私が
ブルクミュラーをうろうろしているときも
Rちゃんは既にソナタを華麗に弾いていた
戦火を逃れて、田舎に越し
とりあえず安普請で建てたという、わが家とは違い
地主で旧家だった古い家はいつも黒光りがし
土間に入ると独特の匂いがした
その二階の部屋で、洒落た本などを見せてくれる
憧れのお姉さんだったのだ
お互い進学などで忙しくなり
近所なのに会うこともなくなり
寂しい思いをしていたのだが
大人になってやっと小さい頃の夢がかなったような
実に幸せな滞在だった
朝は布団の中で、綺麗に身支度を整えたRちゃんを見送り
作ってくれていた朝食を食べ
新聞を開きながら今日はどこに行こうかと、考える
池袋の映画館で
小津安二郎の3本立てがあったので出かけて行き
【秋刀魚の味】などを鑑賞した
夕暮れ、荻窪に帰り、向こうに住職の住まいが見える
小さな中庭に面したガラス戸を開け、柿の大木の実が
黄色くなりかけているのをぼんやりと眺めていると
スーパーの袋をたくさん提げたRちゃんが
『●●ちゃん、ただいま!』と、華やいだ声で帰り
夕餉の仕度をしてくれるのだ
食後は自転車の後ろに乗せてもらって日大二校の横を過ぎ
一緒に銭湯につかったりした
部屋は、とても綺麗に片付いていて
贅沢ではないが、きちんと生活している様子が見て取れた
そんな楽しい日が数日続いた
毎日、穏やかな初秋の陽光に照らされた
中庭の柿を見て過ごした・・・
土日を迎える前日
一緒にラグビーの合宿に来ないかと誘われた
会社で部のマネージャーもしているらしい
何の関係もないのに、河口湖までくっついていき
練習を見、夕食を共にし、ミーティングの輪に参加した
監督の小学生のお嬢ちゃんも来ていたので
隅っこで一緒に遊んだりした
大人になっても、RちゃんはやっぱりRちゃんだ
と何だか誇らしい気がしてうれしかった
できればそのまま居残りたかったが
のん気に遊び、持金も帰りの鈍行列車、片道分を
残すのみとなっていたので
翌日、河口湖から出ているバスに乗り
三島駅から電車で一人、京都に帰ることにした
小さい頃から
あまり人に甘えることのできない子供だったけれど
憧れだったお姉さんを独り占めし
思う存分甘えさせてもらえ、幸せだった
バスが三島に着いたのはお昼ごろだったが
鈍行を乗り継ぎ乗り継ぎ、部屋に帰ったときは
すでに深夜を回っていた
コンテストはどうなるかわからないけれど
もうそろそろ、ちゃんとした仕事に
就かなくてはいけないな・・・
一人、例の宮川町のアパートで
天井を見上げながらそう思った・・・
後日、電話で、鈍行のことを話したら
言ってくれれば新幹線のお金、貸してあげられたのに・・・
と優しく言ってくれたけれど、一人でちゃんと
東京で頑張っているRちゃんに
そこまで甘えることはできなかった
鈍行に乗ってみたおかげで、こうして乗り継げば
日本国中、旅することもできるんだなーと
当たり前のことに気付いておもしろかった
でも、そんな旅をすることもなく約一ヵ月後
フリーターを辞め、最初のアパレルでの就職となった
京都の小さなブラウスメーカーでの採用が決まり・・・
思えば、人生3合目の
ちょっとしたバケーションだったのかな・・・とも思う
Rちゃんは、その後
阿佐ヶ谷の綺麗なマンションにお引越しし
私は、もう一度遊びに行きたいと思いつつも機会を得ず
・・・Rちゃんは、やがて奥さんとなり
東京を離れ、以来、川口市に住んでいる
秋が近くなると、あの優しい荻窪の柿の木を
もう一度見てみたくなる・・・
暑さは真っ盛りなのに来週は、はや、立秋・・
五条坂の陶器祭りが終われば
大文字の送り火、地蔵盆・・・
暑さはまだまだ続きますが
京の夏は、もう終盤を迎えます・・・
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
若い頃、東山の五条界隈の住処を転々とした
繁華街に近く、家賃も安いところを探したら
いつもこの辺りに行きついたのだ・・・
近所には宮川町の置屋があり
三味線の音色が風に乗り、流れてくることもあった
長屋のような町家が続き、外湯を使う家が多かったので
銭湯も選べるほど何軒もあった
住んでいた築何十年もの木造アパートの一階には
往年の名女優、浪花千栄子によく似た少し癇症の
綺麗なお婆さんが、ひっそりと一人部屋を借りていた
置屋の熟練のお運びさんで
その部屋の隣に共同トイレがあり、洗面所を使っていると
ひょっこりと部屋から出てこられ
よく身の上話に付き合わされた
昔は名家のお嬢さんだったのだけれど
結婚した相手が道楽者で、財産を食いつぶされ
こんな身の上になったのだ・・・
と何度も同じ話しを聞かせてくれた
アパートに当然風呂はなく、洗面器に石鹸とタオルを入れ
湿気の多い路地を潜り抜けて銭湯に行った
気がつくと、白塗りにした舞妓さんが隣に座っていたりして
色街の香り漂う、何とも風情のある町だった・・・
立秋を迎えるこの季節
毎年、五条坂の陶器まつりが催される
地元の清水焼のみならず
全国から名産の陶器がいっせいに持ち寄られ
五条通をはさむ北と南の両側を、川端から東大路まで
テントを張った市がずらっと並ぶのである
時間をかけてゆっくりと、綺麗な陶器で目の保養をしたり
お目当ての掘り出し物を探し出すのは
とても楽しいものだった
夜、銭湯に行くと
期間中京都に宿泊している地方の陶器屋さんが
湯を借りていて、一年ぶりの話題に花を咲かせている
今年も暑いですな・・・次は何処々をまわる予定だ・・・
など、お国なまりのある会話を、湯船につかりながら
それとなく聞いているのも風情を感じ、いいものだった
期間中は、何度も足を運んだ
東大路まで行くのに疲れたときは
五条通りを南北に渡る陸橋に上って反対側の市に降り
元の場所に戻る
休日でない限りは、バイトを終えた夜に行くのであり
真っ暗な陸橋でたった一人、近くに山の見える東に向き
両側に広がる祭りの様子や橋の下を車が通る
普段はあまり目にすることのない景色を眺めていると
既に秋を感じる、涼やかな風がにわかに立ち・・・
何の予測もできない若い日のせいか
夏の終わりを告げる冷気が、妙にざわざわと身に沁みた
私はもう、決して若くはないが
またあの頃と、同じ季節が巡ってきた
今週は、ミシンから少し離れ
依頼のあったデザインの仕事にかかっていました
デザインをして、絵を描くことは好きですね
ちなみに、幼い頃の、将来なりたい職業は
バレリーナ(笑)、歌手(もひとつ笑)
そして絵描きさんでした・・・
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
現役時代、全国各地、ときには海外にも渡り
あらゆる企業のユニフォームを企画する仕事をしていた
それまで手がけていた通常のアパレルメーカーでの
婦人服の企画とは趣が違ったが
楽しくて楽しくて仕方がなかった
色んな職種の企業を訪問してリサーチをし
ユニフォームのデザインを考え、絵を描き
企画書を作り、プレゼンテーションをし
サンプルを作ってまた、訪れる
殆どはコンペだったけれど
規模も、プレッシャーやリスクも
大きいほど刺激があって面白かった
億単位の売り上げを、競合相手と競い合うのだ
今振り返っても、自画自賛したくなるほど
ハードな仕事を無難にこなし、成約率は高かった
記憶に残るコンペはいくつかあるが
その中でも故郷のメインバンクの仕事が
決まったときの気持ちは格別だった
新聞にも大きく取り上げられ
いわゆる故郷に錦を飾ることができ
両親にもやっと孝行ができた
しかし、親よりも先に、そのことを報告したい人がいた
小学校を2年づつ
持ち上がりで担任してくださったお二人の先生
中でも I先生とは、忘れがたい思い出がある・・・
小学校3年の夏、絵の授業で
私は校庭に咲く紅い鶏頭の花を描いた
時代にそぐわないせいか今は
あまり目にすることのない大きな鶏頭の花
決して綺麗とは言いがたいが、私はこの花が好きだった
誇らしげに首を上げ
太陽に向かう姿が眩しかったのかもしれない
その力強さを、私は少しデフォルメした形で
画用紙いっぱいクレパスで描いた
I先生はその絵を誉めてくださり
授業参観に飾りたいから仕上げてきなさいとおっしゃった
私は喜んで家に持ち帰り、夢中になって絵を描いていた
そのとき、母が言った
『バランスがおかしい 描き直しなさい』と・・・
母は子供の頃からの、いわゆる優等生で
その頃は子供の目から
どの友だちのお母さんより美しく知的に見えた
自慢である反面、自分自身を
【醜いアヒルの子】と認めざるを得ない
存在であったことも否めない
その頃の私は、そんな母に
抵抗することなどできなかった
しぶしぶ描き直した絵は、深夜にやっと完成した・・・
翌日、絵を見られた先生は
『描き直したの?何で??
あっちの方がよかったのに・・・』
絵を両手に持ち、悲しそうな、怒っているような
残念そうなそのお顔は、今でも脳裏に焼きついて離れない
教室の後ろに絵を張られている
先生の姿がとても淋しそうに見えた
大好きな先生に嫌われてしまった・・・
そんな思いがあふれてきた
その後ろ姿はかすんで、すぐに、見えなくなってしまった
私は、この時の思いを告げ
そしてお礼を申し上げたかったのだ
あの日を境に、あの悔しさや悲しさを教訓にし
『自分の信じるままに』という不言実行の精神を
貫く姿勢が培われたように思う
リスクの高い仕事を与えられたとき
いつもこのときのことが頭をよぎった
そして、悔いの残らぬよう、自分の信じるままに企画をした
何より、あの時、私の絵を認めてくださった
先生のお気持ちがうれしかった
それが自信に繋がったのだ
そして、それに応えられなかった
自分自身の弱さを、わびたかった・・・
鶏頭が咲く今のこの季節、そして正月
私は先生に近況をご報告しているが
いつもかえってくるのは、当時と変わらない
丁寧な筆圧の美しい字でしたためられた、控えめな文章と
優しいお言葉なのである
たくさんの教え子を送り出された先生だが
ご自身のお子様には恵まれることなく
ご主人とお二人、四国の片田舎の小さな町で
のんびりと畑仕事などを楽しまれつつ
静かな毎日を送っておられる
いつも気に掛けてくださる息子を連れて
時間のあるときに、いつか伺いたいと思っている・・・
今日の京都は、朝から雨・・・
昨日の朝、見た桜はまだ『咲きはじめ』だった
でも夕方の桜はもう『三分咲き』にもなっていた・・・
この写真は、傘下で撮った
あとりえのある路地を出てすぐの京都警察学校
塀の中の今朝の桜の様子です
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
服飾専門学校卒業後、先輩のブティックを手伝い
その後、正式に就職し
アパレルメーカーを4社経験した・・・
行く先々、いろんなことがあったけれど
今日のような静かな雨に思い出すのは
3度めに入社した
京都の小さな重衣料メーカーでのことである・・・
社長家族と、営業3人、企画は、すぐ私一人になって
デザイン、パターン、生産管理等
商品開発の仕事いっさいを任されていた
幸い、社長が、物作りに理解のある方だったので
made in Italyや、made in Franceの生地を扱い
小さいながらも品質にこだわった
小ロットの物作りをしている企業だった
コンサバで上品な、ミセス向きのスタイルが多かった
企画が一段落すると、挨拶がてら営業車の助手席に乗り
近畿圏内のお得意先回りをした
10歳ほど年上の営業男性に車で聴かされたのは
【内山田洋とクールファイブ】
最初は、『え?何?演歌なのかよ・・・』と敬遠したが
『こいつ、うまいで・・』と説得されて聞き始めると
なるほど、演歌というよりもムード歌謡の要素もあって
車中で聴くにはなかなかノリのいい
グッドな曲が詰まっていた
その日、訪問したのは彦根の商店街・・・
歴史を感じる古い町並みの古い店で
中年夫婦が静かに日日を重ねる穏やかな町
『この服よう売れたわ』『こんなんもええねん』
という話を聞いたり
ご来店のお客様と接することは
当時、そして今にも通ずる意味のある経験だった
『では、よろしく〜♪』と店を出て
すっかり感化された私は、いつものように二人で
『ワワワワ〜♪!』とバックコーラスを入れながら
(↑アホ・笑)
『前川清、ええなあ♪』などと口にしながら
ふと、車窓の外を眺めると・・・
彦根城は春の雨に煙り
薄墨色のピンクの桜に城壁の裾は染まり・・・
何とも美しい春の景色が広がっていた・・・
雨の彦根城、煙った桜
ちょうど30代を迎える前・・・
クールファイブの歌は、もやもや感を忘れるには
やけに相応しい歌だった
この営業さんも、今思えば人には言えない
もやもやを抱えていたのかもしれない
『この職場が、特に嫌な訳ではない・・・
このままでも、けっこう楽しい・・・
が、しかし・・・』
このまま、この小さな職場に
埋没していてもいいのだろうか・・・
他にもっと、刺激のある場所
私に相応しい場所が、あるのでは・・・?
【鶏口となるよりも牛後となれ】
の言葉が脳裏にチラつき
でも結婚は?将来は?・・・など
真剣に考えなければならない事項が山積みされた
ビミョウな年頃の、平成に変わってまもない
曖昧なバブルの頃・・・
何となく物憂いような春の雨の昼下がり・・・
運命が変わると聞いて、とりあえず片耳だけ
ピアスの穴を開けた頃だった・・・
ピアスの効果は本当だったのか
その後、まもなく誰でも知っている
超有名なアパレルメーカーで奔走する
30代が訪れることになるのだが・・・
夜明け前の、色んな要素がかかわっていたからか
妙に懐かしく思い出す
静かで優しい桜の思い出なのである・・・
大阪場所が始まると、いよいよ春・・・
今の職業に就く前に、銀行でのOL生活を経験している
大阪・茨木の寮で
OL1年生としての生活を始めたときも
近所に、お相撲さんの姿を見た
もう、彼此20年以上も前の話だが・・・
好きな髪形、服の趣味
本来持つ人の性格などというものは
基本的に一生変わらないものではないのだろうか
先般の、カラー診断も、自分に当たる四季は
一生変わらないものだと聞く
同窓会に参加した時も、髪型が皆
当時と殆ど変わらないことがおかしく興味深かった
私も、時々ばっさり短くなるが
結局ウエーブのセミロングに落ち着いてしまう
さて、そのOL時代・・・
1年が過ぎた頃、私も人並みに職場の人に恋をした
男性的なすっきりとした風貌に
鮮やかな華紺の背広がよく似合う
同じ課の先輩だった
忙しすぎる職場で、プレッシャーを背負う姿を
痛々しく気遣う心が、恋に変わった
彼女は既にいたし、打ち明けることすらできない
OL時代の辛いハツコイだった
1年半後、私に転勤の期が訪れた
職場も住まいも変わる大掛かりな転勤・・・
落ち込む私を見かねた
彼と親しい女性の先輩が、この恋の話を知り
不憫に思って1度だけ
電話で話す機会をつくってくれた
長い沈黙の後・・・結局は
『お元気で・・』としか言えなかったけれど・・・
時は過ぎた
私が銀行を辞し、服飾の世界に転向して
10数年以上の歳月が過ぎた
未来に展望が見えず
無口だった二十歳そこそこの暗い娘は
やりがいのある、好きな仕事に奔走する
一端のキャリア・ウーマンに変わっていた
ある日、納税に銀行の窓口に立ち寄った
何気なくカウンターの奥を見たとき・・・
青い背広を着たその男性は
永い職場生活で風貌こそ変われ・・・
まぎれもなく、あのときの先輩だった
『毎日、きっと辛いお酒を呑んでいるのだろうな』
表情は険しく、顔もうわ腫れてはいたが
長身を少し丸めて立つ姿、髪型も、あの頃のままだった
私は窓口の人に
『あの人、Iさんでしょ? 役席の方?』
それとなく尋ねると、主席だという答えが返ってきた
『・・・やはり、出世はしなかったな・・・』
何故か、安堵の気持ちを覚えた
生き馬の目を抜くような厳しい職場で
あの人が、勤め続けたことの方が、私には驚きだった
きっと優しさがそのままだからこそ、痛々しく歳を重ね
風貌すらも変わってしまったのだろう・・・
『大丈夫、Iさん まだ大丈夫!
こんな華紺が似合う男性なんて
貴方くらいのものですから・・・』
今ならできる・・・
あの大きな手を取ることも
まっすぐに眼を見つめ、声を掛けることだって・・・
でも、そんな気持ちを、そっとしまい
私に気づかないその人に、心の中でエールを送り・・・
私は、銀行を後にした・・・
恩師からの賀状を眺めていた
専門学校に通ったのは2年だが
アルバイトをしながらの 自費生活で
校風が厳しく、課題が多い毎日は結構辛いものだった
深夜に及ぶバイトのためか、遅刻や欠席が多く
おまけにジバンシーのような
オートクチュールの技術を学ぶ学校なのに
当時流行していた川久保怜や
ヤマモトヨウジの影響を受け
奇をてらったような服ばかり作っていた
模範生といえるような優秀な
生徒でなかったことだけは間違いない・・・
2年の終わり
専攻科への進路を自分なりに決めていたとき
担任に呼び止められた
『あなたは進級しなくてよい
この学校で学ぶ人ではない
社会に出て働きながら
一人で勉強をする方が向いている・・・』
・・・地に足さえ着いていないくせに
向上心だけは勝っていたので
私は拒絶されたような気になって
かなりの強いショックを受けた
ウエディングドレスを作り
卒業式に出る風潮が多い中で
私だけ着物をモチーフにした
奇妙な原色のカクテルドレスを作って出席した
とにかく色んなコンペで賞を取り、実力を付け
学校や、進級した友人達を見返したい・・・
そんな暗い思いだけを心の隅に持ちながら
卒業後、1年、2年と賞を頂き、3年目・・・
マネキンの着せつけの為、入ったコンペ会場に
母校の学生と専攻科の先生がいらした
その先生とは顔見知り程度の面識だったのに
顔を見るなりこちらに来られ
作品をじっと見つめながら
『あなた、よう頑張らはったなあ・・・』
としみじみ言われた後
黙々と着せ付けを手伝ってくださった
『学校でも、皆で感心してはるえ』
私は、ただ溢れる思いと涙を堪えるのに精一杯で
久しぶりにお会いしたのに
何を話すこともできなかった
母校に対するわだかまりは
その時、綺麗さっぱり解けてしまった・・・
卒業して20年になるが
当時の担任で、後、学校長になられた先生や
デザインと絵の先生方に
色んな形で励ましの言葉を頂き、助けて頂いている
メーカーに入り人を探していると
『では貴女に合う方をご紹介しましょう』
と言って、本当に相性がぴったりの
優秀な女の子を行く先々に送り込んで下さったのは
2年当時の担任の先生である
一番感謝すべきは、当時私が作りたいと思った服が
たとえどんなデザインであれ、決して
『それを作るな』とか
『何だこれは』というような否定をされず
服として最良の形になるように
いつも綺麗な仮縫いをして頂いた事である
下手をすれば仮装行列と成りかねないデザインでも
先生に仮縫いをして頂くと
いつも上品な正しい形でおさまった
本当のプロの実力を目の当たりにし
若さゆえの拙い反発をしながらも
心の底から尊敬していた
あのときの経験がなければ賞は絶対に取れなかったし
今こうして服作りを生業にすることなどあり得なかった
心からそう思い感謝している・・・
保育園に通う子供が、
今、作品展の作品を作っている
牛乳パックや容器の蓋などを使ったり
散歩で拾った松ぼっくりに絵の具で色を付けている
両手で筆を使い、
終了時間が来ても止めようとしないらしい
将来は、山下清か岡本太郎、棟方志功のような
ゲイジュツカになるのだろうか・・・
馬鹿親は勝手にこんなことを夢想している・・・
かつて私も、美術、国語、音楽は
常に5段階評価5という完璧な文科系人間だった
スポーツすることは苦手だったが
剣道だけは性に合い、授業を終えると図書館に行き
山本有三、福永武彦、伊藤整などを借り
そのまま武道館で誰よりも早く素振りを始めた
新撰組でいうなら井上源三郎タイプの、
不器用なくせに稽古が好きで何故か実戦には強い
という剣で、意外に早く初段も取得した
稽古を終え、帰宅すると
風呂の火焚きをしながら借りた本を読み
食後は二階の北に面した隙間風が寒い部屋で
小さな電気ストーブに手を温めながら
トップギャランのLPレコードをBGMに
所属している美術部には
馴染めないので顔を出さず
一人で芸術展の絵を描くという
今思えば、少し妙で、
結構暗めの趣味を持った高校生だった
入賞した絵などが文化祭で展示されたとき
クラスの男子に呼び出された
ダボダボのズボンを履き、数人で廊下にタムロしている
不良グループの一人だった
大抵の女生徒は、怖がってその廊下を避けていたけれど
癪に障るのでいつも私は知らん顔で通り過ぎていた
多分そのことをあれこれ言われるのではないだろうか・・・
・・・チンピラめ、怖くないぞ・・・
と、指定の場所に行くと
グループの長のような存在の別の男子が待っていた
当時流行っていたジョン・トラボルタを真似て
ポーカーフェイスで
上手に踊っているのを教室で見たことがある
鼻筋の通った神経質そうな整った顔立ちや
痩せぎすの骨ばった体は
ある種不気味で私もさすがにたじろいだ
・・・・数秒間の沈黙の後・・・
『あの・・・お前のあの絵、欲しいんやけど・・・』
あの絵とは、京都の寺庭の紅葉を描いた
水彩の点描画のことだった
あまりに意外な言葉と
はにかんだような真剣な表情に
私はすっかり調子が狂ってしまった
『え・・そんなこと言われても・・・』
『売ってくれるか?それならええか?』
『え・・あの・・』
『いくらなら譲ってくれる?』
『え・・・あの・・・一万円・・・』
その頃の私の価値観での1万円は
今の10万円位に値しただろうか
もちろん売る気などなかったので、
あてずっぽで口から出た言葉だった
『え・・そうか・・・一万円か・・・高いなあ・・』
彼は恥ずかしそうに口の中で呟くと
そのまま後ろを向き、すごすごと行ってしまった
多分彼の金銭感覚も私と同じだったのだろう
私はとても悪いことをしてしまった気がして
絵を気に入ってくれたことも嬉かっただけに
日常に戻ってからもそのことが気になって
何度かあの絵、あげる・・と
言いたくなる衝動に駆られたけれど
結局言い出せないまま年を越し、梅の季節が来て
卒業式を迎えてしまった
あの絵は引越しのときに処分してしまい
あのときの彼も今、いったい何をしているのか
私は知らない・・・
嬉しいことがあった
二日ほど前から女の子達が
店の中を覗いては逃げていくということが
何度かあったのだが
今日、店を閉めていたにもかかわらず
お母様を伴って、とうとう中に入って来てくれたのだ
10歳前後の可愛い女の子たちが
『可愛い』『お金足りるかな』『どれにしよう』と
口々に ネックレスなどを選んでいる
元来、店を始めたのは、この年頃の女の子が、
放課後お小使いの中から何枚かの硬貨を握り緊め
宝探しをしてくれるような
可愛い店が持てたらいいなと思ったから・・・
ここに引っ越してくるまでは
小中学生が連れ立って、誕生日のプレゼントなどを
庭先のガーデニング用の
ガラスケースに並べたビーズアクセサリーや
インコの羽で作ったネックレスの中から探してくれた
ここでは無理なのかもしれない
物があふれている今
この子達はこういう物に興味がないのかもしれないと
私自身が、あきらめモードに入りかけていた頃だった
でも今日で再び元気が出て
遠い昔の私自身を思い出していた
当時私が住んでいた田舎町には
雑貨屋さんなどという気の利いたものはなかったのだが
編み物教室をされていた隣町の女の人が
【くるみ】という可愛い名前の店を開業された
見たことのないようなペンケースやキーホルダー
お人形、色とりどりの毛糸・・・
オリーブ少女だった私は
手芸材料や雑貨を買いに
それこそなけなしの小使いを握り
毎日のように店に通った
とても優しい伯母さんだった
余計なことを話しかけるでもなく、いつもニコニコ
『こんにちは』と迎えてくれた
私もあんな素敵な伯母さんになって手作りの店を持ちたい
心の何処かでそんな夢を温めていた
初心忘るべからず
今日改めてそう思う