2019/6/6

「ガルヴェストン」2018米  今日の映画

 今回は上映が報じられてから一番楽しみだったかもしれない映画。原作である「逃亡のガルヴェストン」はちょっと前に読んだのだが、派手な話ではないのになぜか忘れられない佳作で、映画化すればいいだろうなと思っていたのである。

 実際観た感想は、原作に忠実な映画化だった。しかし、決定的に違っていた。

 ボスの下でギャンブルの掛け金の回収を行うロイ。彼は医者から肺がんの疑いを宣告され、自暴自棄になりつつあった。ある日、ボスに命じられた取り立て場所で待ち伏せ攻撃を受ける。組織から見放されたと悟った彼はその場所でとらわれていた娼婦ロッキーとともに逃亡する。

 途中ロッキーは、当座のお金を用意するために自宅に寄った。その住宅内で銃声が響き、ロッキーは幼い女の子を連れて戻ってくる。ロイとロッキー、そして妹のティファニーはともに逃亡する。リゾート地、ガルヴェストンへ…。



 今回の脚本は原作者であるN・ピソラットが書き、監督であるM・ロランがキャストの演技を参考に改稿したそうである。結果、原作者は自分の意図と大きく変わったとして脚本のクレジットを拒否している。しかし、いくつかの変更はあるもののストーリー自体は原作と映画でそこまで大きくは変わらない。だが、原作を読んでから映画を見た感想としては、確かに原作と大きく変わっていると感じた。

 原作においてロイを突き動かすのは「意地」である。かれは自分のボスによって殺されようとしていたロッキーの運命を変えることで、ボスに報復をしようとしているのである。彼にとってガルヴェストンは逃げるための通過点でしかなく、実際に西海岸への逃走を準備していた。実は自分を突き動かしていたのが違う理由だと気づくのは、すべてが終わってからである。

 しかし、映画に置いてロイを突き動かしていたのは結局「愛」なのだと思う。逃げようとする彼の行動は原作よりも散漫で、まるでガルヴェストンという場所に捕らわれてしまったかのようである。そして、ロッキーもガルヴェストンを出ることに現実感を持っていない。

 なぜこのような違いが生まれたのか。多分、ロッキーを演じたエル・ファニングにロイも監督のM・ロランも恋をしてしまったのだと思う。ガルヴェストンの海で遊ぶロッキーはあまりに美しく、それがストーリーとしてのロイの運命も、監督としてのM・ロランの判断も変えてしまったのだろう。多分、もう少し平凡な女優であれば映画としての完成度は上がったかもしれない。しかし、映画としての魅力は明らかに落ちていただろう。

 思えばなぜこの小説に惹かれたのかというと、何かが欠けた不完全なストーリーだからだと思う。それが何かは言葉にできないのだけど、映画は小説よりもバランスを欠いた結果、より魅力を増しているような気がする。
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タグ: 映画



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