2020/2/24

「ミッドサマ−」2020米  今日の映画

 今週は少しバタバタしていた上に、花粉症の季節が始まったこともありテンションが落ち目。金曜は映画に行こうと思ったけれどあまり重いものは見たくない、という事でナイブズアウトを見ようかと思ったんだけれど、友人からメールが。
「日曜日に飲みたいです。そこでミッドサマーの話もしたいです。」
 この監督の前作「ヘレディタリー継承」がかなり重めのホラーだったのでもう少し体調がいい時に見たかったけれど、いずれ見るし仕方ないか、という事でオーケーの返事をしあらためてミッドサマーの席を取った。

 意外にも、テンションが上がるような映画だった。

 女子大生のダニーは意図せぬ形で両親と妹を同時に失う。打ちひしがれたダニーに対し恋人のクリスチャンは、大学の論文作成の為に友人ペレの故郷であるスウェーデンの奥地の村で行われる夏至祭に一緒に参加するように促す。沈まぬ太陽のもとで牧歌的に生活する村は美しかったが、生活を共にするにつれ隠されていた恐怖があらわになっていく…。



 
 前作のヘレディタリー継承は本当に見るのが苦しい映画で、超自然的な力の影により家庭が崩壊していく姿が恐ろしく、いっそ本物が悪魔が出てきたところで妙な安心感があった事を思い出した。「こんなのが出てきたらもうあきらめるしかないよね」という感じ。
 今回のミッドサマーは古代の因習を引き継ぐ村が舞台だけれど、超自然的な力は出てこない。この村の仕組みは議論があるところで、これだけ情報が行きわたる現代においてこのような社会が維持できるのならもうこれは超自然的な力だと思うけど、少なくとも直接的な力をふるう存在は出てこない。
 そして、この村はある意味フェアでもある。確かに外からの血と犠牲を必要とするシステムだけれど、それと等価の犠牲を自らに課している。そして、最終的な決定を行う<女王>の選出もあくまで公平なのである。

 この村でダニーは癒され、変貌することになる。倫理や道徳から考えれば明らかに間違った結末だけれど、彼女自身にとっては救済だろう。こうして考えてみると、果たしてこの村は悪なのだろうか、この村よりも自分たちの社会の方が邪悪なのではないのか、という揺さぶりを感じてしまうのだ。
 この辺は笠井潔の「吸血鬼と精神分析」をちょっと連想させた。心理学を専攻しているダニーが犠牲の血によって癒されるというプロットが近い。ダニーはそもそも最初からこの地に根を張るという暗示が示されているのである。

 この村の邪悪さは、自由意思を与えないところにあるかもしれない。この村を外から訪れた6人の内、4人は殺すために招かれた。そのうち二人は確定だろう。この村の手がどこまで伸びていたのか、それを考察するのは楽しい。クリスチャンとダニーの関係もコントロールしていたのではないか、ジョシュの好奇心を煽っていたのではないか、いろいろ考えられる。そして、この村の忠誠心そのものが危険で邪悪なものに見える。

 ヘレディタリー継承の時は映画が終わった後、客席はぐったりしていたものだった。しかし、今回は終わった時にちょっとハイテンションの人が多かったような気がする。これは、この物語がダニーの癒しと解放の物語でもあったからだと思う。しかし、それをもってこの物語をハッピーエンドと呼んではいけないし、気持ち悪さ、恐怖を覚えることこそが人間として正しい反応だと思う。そういう意味では、テンションが上がってしまった自分は少し疲れていたのかもしれない。
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タグ: 映画



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