2005/11/29

万次郎が暮らした街を訪ねて 第4章 その2  敬愛する「ジョン・万次郎」

万次郎やホイットフィールド船長が望んだ、捕鯨船による開国の夢は叶わなかったが、アメリカは、黒船でペリーを送り開国を迫る。世の中は大騒ぎとなり、幕府は、万次郎の知識と経験を必要とし出した。万次郎は土佐に於いて、外国事情、アメリカンデモクラシーを語り、坂本龍馬・後藤象二郎・岩崎弥太郎らに多大な影響を与えて行った。1853年ペリーが浦賀に姿を見せ開港を求めるや、幕府は万次郎を呼び出し、米国の諸事情や、開国を求める真意を聞き出そうとする。万次郎は、まるで水を得た魚のように、米国の地理・政治体制・民主主義に於ける大統領選挙の話等を語ったと記録されている。

万次郎は旗本の地位を得るが、水戸藩から「アメリカのスパイ容疑」をかけられ、直接ペリーと話す事は出来なかった。しかし、日米和親条約終結後、咸臨丸に通訳として乗船した。その咸臨丸の船中では、「万次郎学校」と言われるほど、勝海舟・福沢諭吉らにとって、造船・航海・測量・英学の勉強の場であった。また、咸臨丸は途中、嵐に遭い、遭難しそうになるが船酔いで苦しむ勝海舟らを横目に、万次郎が持ち前の航海術の腕で乗り切り、事実上の船長となって働いた。捕鯨船での船上生活6年の経験が、生かされる事になったのであった。この時、万次郎が、福沢諭吉を促して、お互いにウェブスターの英語辞書を1冊ずつ購入して帰国したエピソードは、有名である。

◎万次郎の影響を受けた人物
勝海舟・福沢諭吉・後藤象二郎・坂本龍馬・佐久間象山・新渡戸稲造・大山巌・岩崎弥太郎…等

クリックすると元のサイズで表示します 咸臨丸(オランダキンデルダイク造船所製作)

更に万次郎の功績は、小笠原の開拓調査、捕鯨活動、薩摩藩開成所の教授就任、上海渡航、明治政府の開成学校(東京大学の前身)教授就任、アメリカ・ヨーロッパ渡航と、輝かしく、そして日本の為に働き続けた。しかし、何故か万次郎の功績は、歴史の中に埋もれさせられてしまった。それは、万次郎が漁民出身だっただけでなく、当時の日本自体が、国際社会で正しく生き、役割を果たすという自覚がなく、もっぱら一国繁栄主義だったからだと思う。開かれた国を訴える万次郎の考え方に、誰一人ついていけなかったのかもしれない。

また、万次郎は14才まで、日本語の読み書きを習得して居らず、会話は得意であったが、文章として残す事が苦手であったと推察される。そして、44才で脳梗塞となり、得意だった会話にも不自由を来す事になったとも思われる。脳梗塞以後の万次郎は、政治の舞台には姿を出さず、波乱万丈の半生に比べて、静かな晩年を送った。その間、故郷の土佐、中浜にも数度程帰省し、老母(明治12年に86才で病死)を見舞っている。そして、東京京橋弓町の長男・中浜東一郎医博(当時岡山医学校教授)宅で、71才の生涯を静かに終えた。

クリックすると元のサイズで表示します 2年毎に開催された万次郎祭りの際の寄せ書き/中浜博 氏(4代目)の名前がある (ミリセント図書館)

万次郎の事が、日本では、「万次郎漂流記」等の発刊により、幸運な漂流民としてのみ語り継がれる中、アメリカでは、その後も、中浜家とホイットフィールド家の交流は続いて行った。万次郎の存在は、フェアヘヴンでは英雄のままだった。その証拠に、第二次大戦中も、息子、東一郎氏が送った刀は、陳列台から降ろされる事無く飾り続けられたのだ。万次郎は、明治3年、普仏戦争視察の為、渡欧する途中に寄ったニューヨークからも、一晩でフェアヘヴンに駆けつけ、ホイットフィールド船長に会いに行っている。フェアヘヴンの人達は、人間愛に満ち溢れ、義理と礼を尽くした万次郎と敵国の日本とを、切り離して考えていたのだろう。そして現在でも、中浜家とホイットフィールド家、そして、姉妹都市として、フェアヘヴンと土佐清水市も、交換留学生を送りあったりし、その親交を深め続けているのである。

クリックすると元のサイズで表示します2003年、万次郎祭りにて。タウンホールの前でスピーチをするスコット・フィールド氏(ホイットフィールド船長から6代目)

◎参考 
○土佐清水市HP
http://www.city.tosashimizu.kochi.jp/john/

○川澄哲夫 編著 「ジョン万次郎とその時代」
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2005/12/1  1:05

投稿者:ほたるさん

☆やままささんへ
コメント、及び、鋭いご質問、ありがとうございました。西郷さんと、万次郎は、恐らく会っているとは思うのですが、私が読んだ書物には、登場して来なかったです。ただ、万次郎が教鞭を執った「開成学校」で学んび、万次郎と共に、普仏戦争視察の為の渡欧をした「大山巌」は西郷さんの従弟ですし、接点はありそうですね。万次郎が教えていた「薩摩開成所」には、龍馬も訪れています。もしかしたら、一緒に訪ねていたかもしれないです。帰国したら、もう少し、その辺りも調べてみたいと思っています。

2005/11/30  23:43

投稿者:やままささん

連載ご苦労様でした。知らないことばかりで、とても勉強になりました。
◎万次郎の影響を受けた人物。。。ほんと、すごいメンツだ。少し気になったのは、ほぼ同時代の人なので当然のこととしても、西郷どんの交友関係と似通っているなぁと。ジョン万と西郷どんの交流というのはあったんだろうか??

http://diary.jp.aol.com/tb4bw3xscrrb/

2005/11/30  14:46

投稿者:ほたるさん

☆JUNさんへ
コメント、ありがとうございます。そうなのです!アメリカの自由民主主義の考え方は、当時の日本には、受け入れにくいものだったのでしょう。もしかして、もっと政治の舞台にいたら、龍馬達のように暗殺されていたかも?しれない。等と考えると、万次郎自身は晩年を穏やかで、平和に暮らしたかったのかもしれないです。万次郎のひ孫にあたる、中浜博氏が、今年「中浜万次郎―「アメリカ」を初めて伝えた日本人」を発刊されました。思わずボストンから注文してしまい、帰国したら、早速読もうと思っています。(そんな暇があるかしら?)やはりNHKに投書しなければ…とマジで思っています。

2005/11/30  13:23

投稿者:JUNさん

万次郎は、人間としても多くの方々に愛されたばかりか、本当に優秀
な方だったんですね。あまりにスケールが大きすぎたために、当時の
日本には受け皿がなかったように思われます。封建的な武士社会で
あった島国日本が、開国後、いきなり大海に放り出されて多くの思想
や社会に触れていく中で、難破しないでいられたのも、万次郎のお陰
なのかもしれないですね。あの時代、天は人の上に人を作らず、なん
て思想は、ずっと日本にいた福沢諭吉が思いついたというより、外国
で学んだ万次郎の影響を受けた、と考えるのが自然なのかもしれない
です。アメリカで学んだというだけでなく、アメリカの人々の心に、
今なお残っている、というのが、凄いですね。


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