2006/11/30

硫黄島からの手紙Vol 3… 栗林忠道から家族へ、そして部下へ。  好きな映画と本(一部ネタバレあり)

太郎君ニ 知ラセル御父サンノ様子

余り 暑いから ハーバード大学ノ庭へ行テ 寝ソベッテ居ル所


成績優秀だった栗林は、軍事研究の留学生として、昭和3年3月から昭和5年4月までの2年間、アメリカに滞在した。当時3才(〜5才)でまだ文字が読めなかった太郎(長男)の為に、絵を描きそれに解説文を添えた手紙を送った。届いた手紙は妻の義井が太郎に読んで聞かせた。その絵手紙を見ると、生活に密着した話題が多く、自動車や電車を見れば太郎を乗せてみたいと思い、美しい景色に出会うと太郎にも見せたいと願う、父親の温かさと、そして異国で家族と離れて過す淋しさも伝わってくる。また「猫だけは日本と同じいから、こんなものが非常に懐かしい。猫が本当に味方のような気がする程、外国は淋しいことがある」と書かれている。そんなアメリカ生活の中で、栗林氏が最も愉快な事は、果てしない練兵場を馬に乗って走る事で、最もイヤな事は、週末に開かれるダンスパーティだとも書かれていて、親近感を感じられ、とても微笑ましく読む事が出来る。
クリックすると元のサイズで表示します ハーバードエリアの芝生(2006年)
栗林氏もこの辺で寝そべったのだろうか?


栗林は、昭和3年3月27日横浜港から「太陽丸」に乗って、ハワイを経由し、同年4月13日、サンフランシスコへと到着した。陸路、ロサンゼルスに向かい、ロサンゼルスからグランドキャニオンの見学をし、シカゴ経由でワシントンへと入った。そしてボストン、ニューヨーク州バッファローに滞在…日本人の少ない地に住み、英語力を磨いた。そしてカンザスシティ、エルパソ、とアメリカの中南部も見学し、メキシコにも行った。帰路はワシントンからニューヨークへ周り、イギリスのリバプールからロンドン、パリ、ベルリンを経由して、シベリア鉄道にて帰国した。

アメリカからの絵手紙。 クリックすると元のサイズで表示します

栗林の絵手紙は、今風に言うと「インタクラクティブ」(双方向)があり、手紙を媒体として、それぞれが受け手と送り手になれる…バーチャルな関係が形づけられている。父は遥か遠いアメリカから、息子の目を通して妻に語りかけ、妻は夫の声に耳を傾けながら息子に語り聞かせる。この絵手紙によって息子・太郎は、いないはずの父の存在を強く意識出来ただろう。その絵手紙の中からは、軍人・栗林忠道の姿は全く見えて来ない。

それから10余年経つと、栗林の手紙は、硫黄島から次女(当時9〜10才)のたか子宛てと変り、たかこを始め、家族を思う気持は変らないが、内容はだんだんと「これから先を気強く明るく生きて欲しい」…というような別れの言葉へと変化せざるを得なくなって行き、読み進むうちに胸が締め付けられてくる。

「たこ(たか子)ちゃん、お父さんはたこちゃんが早く大きくなって、お母さんの力になれる人になることばかり思っています。からだを丈夫にし、勉強もし、お母さんの言付けをよく守り、お父さんを安心させるようにして下さい」。         昭和19年6月25日 戦地のお父さんより。

一方、栗林の立場は、陸軍将校。それも近衛師団(近衛兵になるには、家柄もよく三親等以内に犯罪者がいてはならない)の団長まで勤めたという将校の中でもエリート中のエリートでありながら、軍属として働く人達にも、思いやりがあって温かい人柄だったようだ。貞岡信喜は、縫工部に属し高級将校の軍服などを新調したり、直したりする部にいて栗林の担当だった。貞岡は例えば「車に乗れ」という言葉も命令口調ではなく「乗りなさい」と優しく声をかけられ、天皇陛下から下賜された鴨鍋での食事会にも招かれた。それは、当時の軍人の階級社会では考えられない事だった。貞岡は栗林中将を慕い続け、硫黄島へも一緒に行きたいと申し出るが、その時は「駄目だ、親孝行しろ」と初めて叱られ、却下されたという。
クリックすると元のサイズで表示します広東にて…中央が栗林氏。その右後方に貞岡氏。(「散るぞ悲しき」より転写)

戦局の悪化に伴い、どうせ死ぬなら閣下の元で…と諦めきれない貞岡は、父島の軍基地まで渡り、藤田副官に栗林中将へと電話をかけてもらう。しかし「こらぁっ、渡島あいならん」と怒鳴られ剣もほろろに返される。硫黄島には縫工作業する人手は要らず、無駄な死は必要なかったのだ。その時の事も栗林は、妻の義井宛の手紙の中で「貞岡がせっかく来たのに、私に会えずに帰還し、結局郷里に帰るのだと思う…後略…東京へ着けば無論立ち寄るだろうからその時は、玄関だけにせず何でもある物をやって下さい」と書いていて、貞岡の気持ちを知りつつ、心を鬼にしたことが覗える。その後、栗林は貞岡宛てに葉書を出した。軍事郵便の文字が印刷された葉書に端正な文字で認められていた栗林中将の温かい言葉…。葉書は、61年経った今でも貞岡家の自宅の金庫に保管されているという。

その貞岡が硫黄島へと渡ることが出来たのは、栗林中将の死から33年を経た昭和53年だった。慰霊巡拝団の一人として渡島した貞岡は、栗林中将が潜んでいたという司令部壕を示されると声を限りに叫びながら駆け出した。「閣下ぁー、貞岡がただいま参りましたーっ!」

親として、夫として、軍人として、そして何より人として、思いやりに溢れた栗林忠道の手紙…日米合わせて3万人近い硫黄島での戦死者の魂へ、そしてその遺族の心へと、言葉の壁も乗越えて届いているように思えた。

◎文中、敬称略
◎参考
「玉砕指揮官の手紙」 栗林忠道著 小学館文庫
別冊宝島「栗林忠道 硫黄島の戦い」 宝島社

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2006/12/5  5:49

投稿者:ほたる

ハルカさん、ご来訪、そしてコメントを書いて頂きありがとうございます。
コメントの、返事が、遅くなって申し訳ありませんでした。

>父親たちの星条旗を見てぐーぐる検索して来ました。

ありがとうございました。いよいよ今週末には、
二部作の「硫黄島からの手紙」も封切りですね。

>このブログは、それぞれのテーマごとに何人かで分けて書かいているのですか?

話題が彼方此方飛ぶからですよね。時々尋ねられます。ごめんなさい。
でも、私1人で仕事の手が空いた時に、書いているのですよ。

>詳しく書いてあって読んでて勉強になることばかりです。

そう言って頂けると、とっても嬉しいです。

>ここを読んで感動したから硫黄島からの手紙も絶対見ます。

はい。是非ご覧になって下さいね。私も持論観ますし、
観た後多分、ブログに感想を書くと思いますから、
ハルカさんも、また書いて頂けると嬉しいです。
またのご来訪を、お待ちしています。


☆ハルカさんへ

2006/12/3  12:47

投稿者:ハルカ

父親たちの星条旗を見てぐーぐる検索して来ました。
このブログは、それぞれのテーマごとに何人かで分けて書かいているのですか?
詳しく書いてあって読んでて勉強になることばかりです。
ここを読んで感動したから硫黄島からの手紙も絶対見ます。

2006/12/2  20:52

投稿者:ほたる

>バロン西も栗林中将も留学経験者だったとは、全く知りませんでした。

西竹一氏は、留学という形でなく、外遊という形だったと思います。
何せ、洋服は飛行機に乗って、イギリスまで仕立てに行っていたという逸話もあります。
どちらにしても、井の中の蛙状態の日本にあって、世界を知っている人達でしたよね。
西竹一氏はロス五輪以来、ハリウッド女優さんとお付き合いもあったといわれていますし、
栗林氏は、留学経験によって当時のアメリカという国を理解していたようです。

>米国を最もよく知っていた人物であった二人が米国との戦争の最前線に送られたのは
皮肉と言うよりは、やはり意図的なものが感じられますね。

そうですね。帰る事が決して出来ないと分っていた地への派遣でしたから。。
アメリカ側は、栗林氏が来ているとは思わなかったそうですよ。
アメリカだったら、彼は後の国の為に戦死すると分っている地へ送らない、と思っていたからだそうです。
万次郎氏の4代目、中濱先生の奥様は、お父様が現在の「ノリタケ」のNY支店長だったそうで、
開戦時、どさくさで引上げて来られたそうですが、当時はアメリカに住んでいた…
と言うだけで、偏見の目で見られたそうです。そういう国の世情だったのですよね。
戦争は、人の善悪の感覚を麻痺させてしまいます。
そんな中で、栗林氏や西氏、また貞岡氏らのエピソードは、余計光って胸を打ちますね。
「硫黄島の手紙」がアメリカでも、
多くの方に観て貰えたらいいなと願っています。



☆すぬさんへ No2

2006/12/2  20:48

投稿者:ほたる

すぬさん、パッツは好調のよう?ですね。プレーオフに進んで欲しいです。

>貞岡信喜さんのエピソードには、涙がこぼれます。

はい。上官を慕う気持ちと部下を思いやる気持ちに、胸が詰まりますね。

>33年前(当時)に渡ることのできなかった島についに辿り着いたときの心境を思うだけで
胸が締め付けられるような気がします(ρ_;)

きっと、貞岡氏の心の中には、傍に生けなかった辛い想いが、残っていたのですよね。

>栗林中将は本当に温かい思いやりにあふれた人だったんですね。

はい。洋服屋くんへ…とお礼の手紙とお小遣を渡されたりもしていたようです。
穏やかに話す方で、罰をうけて左遷になった兵士にも思いやりを忘れなかったとか。。
実るほどに頭を垂れる稲穂…そんな人だったのですね。

>彼を主人公とした「硫黄島からの手紙」、ますます早く観たくなりました。

アメリカでは、12月20日から一部で上映と聞きました。
ボストンでも、(失礼NHでも)上映されると良いですね。



☆すぬさんへ No1

2006/12/2  20:27

投稿者:ほたる

>バロン西については以前「秩父宮スポーツ博物館」で見たロス五輪の金メダルと乗馬ブーツの事を想い出しました。

やはり「秩父宮スポーツ博物館」に展示されているのですよね。
それでまた、スパイラルさんはご覧になっているのですね。
展示されている稲田悦子さんの衣装といい、是非、行きたい博物館です。

>金メダルはウラヌスの蹄鉄で飾られた額に納められ、ブーツはエルメス社製の逸品でした。

うわっっ。素晴らしい。。蹄鉄で飾られた金メダル…絵になりますね。
それにエルメス制のブーツですか。。流石男爵です。。
私も長靴(ちょうかと読んで下さいね)は、勿論エルメスではないですが、誂えました。
でも、運動不足でししゃも足も、練馬大根になったので、今では履けないと思います。
それにしても、鞍と言い、エルメスの馬具は、見ているだけで、うっとりしますね。
私も勇気を持って、お店に入った事はありますが、安いと思った鞭でさえ、
日本円にして、3万円を超えていて、手が出ませんでした。トホホです。

>ほたるさんへ:もう師走ですね。お忙しいとは思いますが体を大切にお過ごしください。

ありがとうございます。風邪を引いたのですが、ようやく治りかけて来ました。
巷では胃腸風邪が蔓延、それにインフルエンザも流行りそうだとか。。
スパイラルさんも、代わりが効かない方、、、どうぞご自愛くださいませ。
そして、時間を作られて、是非、映画をご覧になって下さいね。
スパイラルさんの、ご感想を楽しみに
(プレッシャーをかけているつもりです)しています。


☆スパイラルさんへ No4

2006/12/2  20:25

投稿者:ほたる


>そう言えば、アメリカの新聞にクリント・イーストウッドの映画製作談話が掲載されていて、この中で製作のため調べて行く内に「ジェネラル・クリバヤシ」に次第に惹かれ、また栗林の手紙に感銘を受けたとありました。

そうですか。。
及ばずながら私も縦社会の軍国主義の中、惹かれるものがありました。
何となくですが、ジョン・万次郎氏に通じるものがあるようにも、感じました。

>栗林中将が卒業した「陸軍大学校」は参謀の養成機関のようなもので外交や国際情勢に疎く、多くは前線(現場)を知らないエリート軍人を生み出し、それが戦争に突き進んで行った原因だとも言われています。

出口のない海を読んだ時も、上層部の人達と現場の人達の矛盾に板挟みになる、
伊号潜水艦の艦長さんの姿とかが描かれていました。
「男達の大和」少し古いですが、「ミッドウェイ海戦」の映画でも、
その温度差が問題になっていたように思いました。

話が逸れますが、
私の伯父(父方の伯母の夫)も職業軍人だったので、
男尊女卑の厳しい人で、幼少時は近づくのも怖かった記憶です。
(晩年は、随分温厚になりましたが)

>しかし、栗林中将はジャーナリストか外交官になりたかった異色の人。硫黄島で栗林の顔を見たことがない将兵はいなかったそうで、やはり現場を熟知したリーダーだったのでしょうね。

硫黄島の地区隊ごとに歩いて周ったと記されていましたね。
玉砕を真っ当しようと、栗原中将の戦術に相対する派の将校もいたようですが、
そのリーダーぶりは、攻撃の先陣を切ったところに集約されていますね。
捕虜になった日本兵は、「硫黄島ソルジャー」としてアメリカ兵から、尊敬されたとか。。
アメリカでは、日本以上にリーダーとしても評価が高かったそうですね。
…というか、日本での評価が低すぎる気もします。

>さて、現代のキャリア官僚たちは陸軍大学校出のエリート軍人みたいな事になっていないか。それが心配です。

政治も警察も、全ての官僚と呼ばれている方達は頭の中だけで、解決しようとされるのでは?
と思います。もっと現場で働いている人と同じ目線になって欲しいと感じます。


☆スパイラルさんへ No3

2006/12/2  20:24

投稿者:ほたる

>梯 久美子著の「散るぞ悲しき」は、栗林忠道のそのような人間性を描くことによって戦争の非人間性を浮き彫りにした点で秀逸で、「大宅壮一ノンフィクション賞」の受賞作となったのは当然ですね。

はい。クリント・イーストウッド監督か゛栗原中将の人柄に惹かれてしまったと
先日の会見で言っていたようですが、
この本は、上手く取上げて、栗原中将の人柄をクローズアップさせていますね。
本の帯に「大宅壮一ノンフィクション賞」と書かれていて、読む前に外し、
カバーをかけて読んでいましたので、すっかり受賞作という事を忘れていました。
スパイラルさんに書いて頂いて、その帯を引き出しから出して来た次第です。
全く、何か抜けています。。(これもいつもの事ですが)

>映画の方は、クリント・イーストウッド監督がこの硫黄島2部作で描きたかったのは「国家」に押し潰される「個人」なのでしょうか。

なるほど。。「父親たちの星条旗」を振り返ると仰る通りかもしれません。・

>「国家」の象徴が第1部「父親たちの星条旗:Flags of our Fathers」の「星条旗:Flag」、「個人」の象徴が第2部「硫黄島からの手紙:Letters from Iwo Jima」の「手紙:Letter」。ここの所、忙しくて映画はまだ観ていないのですが、なんとなくそんなことを感じました。

スパイラルさんは、監督や脚本家の意図まで読める方ですよね。
私も「硫黄島からの手紙」を観る前ですが、スパイラルさんの洞察力の鋭さに
うーーーんと思わず唸ってしまいました。



☆スパイラルさんへ No2

2006/12/2  20:21

投稿者:ほたる

スパイラルさん、こんにちは。お元気そうで何よりです。関係ないですが、
スパイラルさんは、もしかして、今(2日)長野のビックハットに居られるかなぁ?と、
ハイビジョンの画面を観ながら、思ってしまいました。

>ほたるさん、お久しぶりです。ほたるさんの書評や映画レビューはいつも感心しながら読んでいます。

とんでもないです。スパイラルさんに誉めて頂けて嬉しいのですが、いつも、うま〜くフォローして下さいますし、本当にコメント欄では勿体無いお話ばかり…
ボストンの知人は、スパイラルさんが書いて下さると記事の格が上がると言ってます。感謝です。

>今回の「硫黄島」シリーズも素晴らしいですね。

日米合同の追悼式の事とか、まだまだ、書きたい事が沢山あって、いつもの事ながら、
まとまりがなく、長くなってしまいました。映画の封切りが楽しみです。

>栗林忠道の絵手紙は栗林自身の視点に立った構図ではなく、第三者が栗林を見ている構図になっているのが特徴で栗林忠道の非凡な画才を感じます。

仰るとおりです。そうなんですよね。
ささっと描かれた絵なのですが、愛情が一杯篭っています。
私の目を釘付けにされた絵は、ポストへと手紙を投函する絵…。
坊に手紙を出すところ…でした。こんな絵は普通の発想では思いつかないですよね。

>その第三者の視線とはご子息の眼。どことなくユーモラスで飄々とした画には、ご子息にもアメリカの風物を見せてやりたいと言う父親の優しさが溢れています。

お母さんが、絵本を読むようにお父さんからの手紙を、絵り説明をしながら、
読み聞かせている姿が目に浮かびますね。心が温まります。


☆スパイラルさんへ No1

2006/12/2  13:03

投稿者:すぬ

貞岡信喜さんのエピソードには、涙がこぼれます。
33年前(当時)に渡ることのできなかった島についに辿り着いたときの心境を思うだけで
胸が締め付けられるような気がします(ρ_;)
栗林中将は本当に温かい思いやりにあふれた人だったんですね。
彼を主人公とした「硫黄島からの手紙」、ますます早く観たくなりました。
バロン西も栗林中将も留学経験者だったとは、全く知りませんでした。
米国を最もよく知っていた人物であった二人が米国との戦争の最前線に送られたのは
皮肉と言うよりは、やはり意図的なものが感じられますね。

http://gold.ap.teacup.com/sunui/

2006/12/1  2:50

投稿者:スパイラル

ほたるさん、お久しぶりです。ほたるさんの書評や映画レビューはいつも感心しながら読んでいます。今回の「硫黄島」シリーズも素晴らしいですね。

栗林忠道の絵手紙は栗林自身の視点に立った構図ではなく、第三者が栗林を見ている構図になっているのが特徴で栗林忠道の非凡な画才を感じます。その第三者の視線とはご子息の眼。どことなくユーモラスで飄々とした画には、ご子息にもアメリカの風物を見せてやりたいと言う父親の優しさが溢れています。
梯 久美子著の「散るぞ悲しき」は、栗林忠道のそのような人間性を描くことによって戦争の非人間性を浮き彫りにした点で秀逸で、「大宅壮一ノンフィクション賞」の受賞作となったのは当然ですね。

映画の方は、クリント・イーストウッド監督がこの硫黄島2部作で描きたかったのは「国家」に押し潰される「個人」なのでしょうか。「国家」の象徴が第1部「父親たちの星条旗:Flags of our Fathers」の「星条旗:Flag」、「個人」の象徴が第2部「硫黄島からの手紙:Letters from Iwo Jima」の「手紙:Letter」。ここの所、忙しくて映画はまだ観ていないのですが、なんとなくそんなことを感じました。
そう言えば、アメリカの新聞にクリント・イーストウッドの映画製作談話が掲載されていて、この中で製作のため調べて行く内に「ジェネラル・クリバヤシ」に次第に惹かれ、また栗林の手紙に感銘を受けたとありました。

栗林中将が卒業した「陸軍大学校」は参謀の養成機関のようなもので外交や国際情勢に疎く、多くは前線(現場)を知らないエリート軍人を生み出し、それが戦争に突き進んで行った原因だとも言われています。しかし、栗林中将はジャーナリストか外交官になりたかった異色の人。硫黄島で栗林の顔を見たことがない将兵はいなかったそうで、やはり現場を熟知したリーダーだったのでしょうね。さて、現代のキャリア官僚たちは陸軍大学校出のエリート軍人みたいな事になっていないか。それが心配です。

バロン西については以前「秩父宮スポーツ博物館」で見たロス五輪の金メダルと乗馬ブーツの事を想い出しました。金メダルはウラヌスの蹄鉄で飾られた額に納められ、ブーツはエルメス社製の逸品でした。

ほたるさんへ:もう師走ですね。お忙しいとは思いますが体を大切にお過ごしください。







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