2007/9/14

大黒屋光太夫記念館を訪れて…No1伊勢から船出、漂流へ  歴史(音吉/大黒屋光太夫/源義朝)他

私の敬愛するジョン・万次郎こと中浜万次郎が、西暦の1927年に土佐で生まれ、まだ2才にもならず、恐らく土佐の浜をよちよちと歩き始めた頃、万次郎より一早く「世界」を体感し帰国した日本人が、江戸(東京)の番町薬草園内で、静かに息を引き取った(享年78才)。その人の名前は、大黒屋光太夫…。万次郎と同じく太平洋の荒波に人生を翻弄され、方向こそ異なって国は違ったが漂流民としてロシアへ渡り、厳しい自然と闘いながらも、エカテリーナ女帝と謁見までして、祖国へ帰郷する想いを貫き通した人…であった。私は井上靖氏の原作「おろしや国粋夢譚」(ロシア夢物語)を読み、1992年に緒方拳主演で、映画化された同題名のDVDを観て、是非、三重県鈴鹿市に2005年新設された「大黒屋光太夫記念館」を訪れたいと思い、休日に車を走らせた。
クリックすると元のサイズで表示しますエカテリーナに帰国を懇願する光太夫
エルミタージュ宮殿にて熱演する緒方拳


光太夫は、1751年伊勢の国若松村(現在の伊勢市南若松町)に亀屋という旅籠(はたご)の息子として生まれた。成長するにつれてその俊敏性と統率力を認められ、回漕問屋(船舶で旅客や貨物を運ぶ問屋)である大黒屋の養子となって、白子(しろこ)港から江戸へ紀州米、伊勢木綿等を運ぶ神昌丸の船長として31才となった12月13日、江戸へ向けて出港した。当時の白子(現在・鈴鹿市白子町)は、紀州領として、江戸幕府特定の重要港湾であった。この港は、伊勢はもとより、伊賀、志摩、尾張、美濃、飛騨、近江から江戸へ向かう貨物船が出航していたが、全てこの港を関所として、査証(パスポート)を貰い江戸へ向かわなければならなかった。
大黒屋光太夫記念館全景。 クリックすると元のサイズで表示します

神昌丸の乗組員は船長の光太夫を入れて16名、積荷は先に述べた幕府に収める紀州米350石(一石=約150キロ)、瓦150石の他、木材、伊勢木綿等を搭載していた。船の大きさは、長さ約30m、幅約8m、帆船の帆の高さ約25m。所謂「千石船」であった。記念館には神昌丸の模型も展示され、子供達向けに解り易く一般のお風呂の1000杯分の大きさと記されていた。その時代、漂流民が嵐に遭っても助かったという背景には、当時の木造船技術の素晴らしさが見え隠れする。しかし、頑強な千石船も遠州灘に差し掛かった所で三日三晩嵐に揉まれて、舵は折れ、帆を揚げる帆柱も傾いて転覆寸前になった。船員達は、瓦などの荷を捨て帆柱を切り捨て船のバランスを保ち生き延びた。だが嵐が止んだその時には、かすかに見えるはずの日本の山々の姿も遥か海の彼方となっていた。尚この嵐によって遠江の駿河沖で遭難した船は24隻に及んだという。

舵と帆を失った神昌丸は、黒潮に乗せられて東北に流され、やがて北緯45度辺りから太平洋海流に巻かれて漂った。光太夫達は、暦では6月に入るというのに、暖かくなるどころか、氷雨まで降ってくる状況から「北へ流されている」と察知した。また当時から船乗り達が目印としていた北斗七星も夜毎に高い位置となっていた。漂流間の、食料としては、積荷の米が充分あり、水は雨水を溜めて飲み、海流の魚を釣り上げて食べていた。しかし野菜は採る術も無く、アメリカへ漂流した音吉達と同様、2ヵ月も経つとビタミンCの不足で元気を失っていった。7月15日、初の犠牲者が出た。幾八(若松出身、当時42才)だった。光太夫達は、自分達の辿る運命を予感する暗い思いで、幾八の亡骸を海に葬ったという。
クリックすると元のサイズで表示します 千石船「神昌丸」の模型。

その日から数日後、見張り役をしていた磯吉(17才、若松出身)が、鳥が飛ぶ姿を見つけ、島が近いと騒ぎ出した。かすかに見えた島は白い雪を被っていたが、光太夫達は、約8ヶ月ぶりに見る島影に絶叫して喜び、船板に跪いてひれ伏し拝んだ。その島は北海の果て、アラスカとカムチャッカを結んでいるアレウト列島のアムチトカという島だった。光太夫達は神昌丸に碇を降ろし、伝馬船に米2表と鍋釜や衣類を積んで乗り込み、島へと上陸した。時は雪解けの頃、所々に土も見え、雑草が生えていた。この島は当時ロシア領であったが、アレウト人と呼ばれる原住民も住んでいた。彼らは言葉こそ通じないが友好的でジェスチャーにより「来い」という仕草をした。光太夫は比較的元気だった5人を連れ、アレウト人に着いて行く事にした。
漂流した海路を示す地図(黄色)クリックすると元のサイズで表示します

半里(2キロ)程歩くと、光太夫達が今まで見た事のない深紅の洋服に身を包んだロシア人が立っていた。光太夫達を見ると持っていた銃を天に向かって発砲…。光太夫達は驚嘆したが、それはロシア流の礼砲だった。光太夫達は彼らの住まいに案内された。首領らしいロシア人が微笑みながら光太夫の手を固く握り、自分を指して名乗った。「ニビジモフ」。光太夫も臆する事無く「ニッポン国の光太夫です」と丁寧に名乗った。まもなく浜に残った他の9人も呼び食事が持成されたという。光太夫達も感涙に咽んだが、私はこの史実を知った時点で、当時から言葉は通じなくとも、国境を越えた人間愛があった事に感動して涙が止まらなかった。しかしこの時、このニビジモフとの出会いが、北の果てから限りなく厳しく、かつ果てしなく長い旅が始まる序章に過ぎない事を、光太夫達は知る由もなかった。

…No2へと続く。(写真はクリックで拡大)

※ご協力 大黒屋光太夫顕彰会
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2007/9/27  15:32

投稿者:ほたる

みきさん、ご丁寧に何度も謝って頂いて恐縮です。

>ほたるさん、
コメント承認制に不慣れで何度も頂いたコメントに気がついておりませんでした。本当にすみません。

いえいえ。二段階投稿には、私も慣れていなかったので、お互い様です。

>光太夫が8ヶ月も漂流していたとは驚きです。積荷の米が無事だったというのは運が良かったですね。

そうなんです。アメリカ西海岸の北に流れ着いた音吉達もお米を積んでいたので、
助かりました。もっとも、壊血病で乗組員の殆どが命を落として行ったのですが。

>あと、最近旅先でとても綺麗な星空を見たのですが、その時、これだけはっきり見えれば昔の船乗りが目印にできるよなあと思いました。

そうですね。私も星を観るのが好きなので、星を観ても季節の変化を感じます。
当時の船乗り達は、北極星などを目安にしていたようですね。

>それにしてもロシア人の親切さ...個人レベルではどこの国の人とでも通じるものがあるのですよね。

はい。それは私も、どの国の人でも慈愛の心は持っていて、同じように思います。

>それがアメリカのピューリタンと先住民のように、その後悲劇的につながっていく場合もありますが。

はい。仰るとおりです。政治…国の侵略が絡むと悲劇を生みますね。
世界史も日本史も、そういう悲しい歴史の繰り返しですね。
その歴史を反面教師にして、これからはそういう事がないようにしてほしいです。


☆みきさんへ

2007/9/27  15:23

投稿者:ほたる

>ロシア帝国は鉄のカーテンの向こう(ちょっと古い言い方過ぎ
ますね)と思っていましたが、意外な歴史の繋がりがあるものなのです
ね。

はい。北方問題と同じにして閉ざされて来た気もしますが、
資料が北海道、三重県、そして(蝦夷地開拓に関わった武川家に伝授された資料は)岐阜県にと、
彼方此方に散在していて、全部を観る事は難しく、知らない方か多いですよね。

>ロシア帝国のアラスカ進出の経営者ニコライ・レザノフさんは
1804年に長崎に来たという記録もあるらしいですから、大国屋光太夫
さんたちの言葉が糸口になっただろうと思われます。

はい。きっとそうですよね。またレザノフ氏についても調べてみたいです。

>以前 宇宙に向けて信号を送っているグループの方の話では、地球上で
新大陸を発見し原住民と戦いに成ったという話があるから通信信号を
送って宇宙人が地球に来てどう意思表現をし対応できるか危険ではない
かと言う話に成って信号を送るのを中止した事がありました。

そうなんですか!?凄い話ですね。

>漂流して言葉も生活習慣も違う人たちと文化交流が出来る人物はやはり
凄い人たちだっただろうと思います。

賢い人達だったのだと思います。そして、情報の飢えていたのもあると思います。
地球儀を見るのも初めてだったのですから、物凄いカルチャーショックだったのですよね。
それにしても、逞しく生き抜いた人達だと、感動します。


☆takakoさんへ No2

2007/9/27  15:21

投稿者:ほたる

takakoさん、マーク・トウェインの所まで読んで頂き光栄です。

>ブログをさかのぼって作家マーク・トウェインの手紙を見て来ました。

takakoさんに見て頂けるなら、もう少し読めるように撮影してこれば…と思いました。

>写真で拝見出来る事の不思議さと嬉しさを同時に感じます。
ありがとうございます。

いえいえ、此方こそありがとうございました。
万次郎さんとのつながりは、フェアベヴンにあったのですよね。

>大国屋さんは物語の中の事だけで記念館があろうとは夢にも思いません
でした。

はい。2005年にオープンしたのです。昭和61年に当時の若松小学校長様が、
郷土史を調べようと古い書物を調べていた所、光太夫が帰省した事も分かりました。
それまで、帰省できず幽閉されていた悲劇の人…というイメージだったらしく、
歴史が変わったみたいです。
それ以前に書かれた井上靖氏の著は読んでいましたが、
まだ吉村昭氏の「大国屋光太夫」を読んでいないので、是非、読みたいと思っています。


☆takakoさんへ No1

2007/9/24  9:39

投稿者:みき

ほたるさん、
コメント承認制に不慣れで何度も頂いたコメントに気がついておりませんでした。本当にすみません。


光太夫が8ヶ月も漂流していたとは驚きです。積荷の米が無事だったというのは運が良かったですね。あと、最近旅先でとても綺麗な星空を見たのですが、その時、これだけはっきり見えれば昔の船乗りが目印にできるよなあと思いました。それにしてもロシア人の親切さ...個人レベルではどこの国の人とでも通じるものがあるのですよね。それがアメリカのピューリタンと先住民のように、その後悲劇的につながっていく場合もありますが。

http://diary.jp.aol.com/applet/aujzpye6s4d2/200709/archive

2007/9/21  17:07

投稿者:takako

ブログをさかのぼって作家マーク・トウェインの手紙を見て来ました。
写真で拝見出来る事の不思議さと嬉しさを同時に感じます。
ありがとうございます。

大国屋さんは物語の中の事だけで記念館があろうとは夢にも思いません
でした。ロシア帝国は鉄のカーテンの向こう(ちょっと古い言い方過ぎ
ますね)と思っていましたが、意外な歴史の繋がりがあるものなのです
ね。ロシア帝国のアラスカ進出の経営者ニコライ・レザノフさんは
1804年に長崎に来たという記録もあるらしいですから、大国屋光太夫
さんたちの言葉が糸口になっただろうと思われます。

以前 宇宙に向けて信号を送っているグループの方の話では、地球上で
新大陸を発見し原住民と戦いに成ったという話があるから通信信号を
送って宇宙人が地球に来てどう意思表現をし対応できるか危険ではない
かと言う話に成って信号を送るのを中止した事がありました。
漂流して言葉も生活習慣も違う人たちと文化交流が出来る人物はやはり
凄い人たちだっただろうと思います。

http://diary.jp.aol.com/2ymvsg59/

2007/9/19  11:20

投稿者:ほたる

>『光太夫の漂流記』がある事にも驚きます。古い書き物が残っているん
ですね。

彼本人が書き残したものと、
当時、桂川甫周が話を聞いて書き残した「北槎聞略」など、
また、ロシアや欧州にも残っているそうです。
光太夫本人の日記?は、まだ最近発見されたとの事…
それで鈴鹿へ帰省した事が分かったということらしいです。

>今時の紙は一週間 日なたに置いてあると変色してボロボロに
なるものが多いですから歴史の紙が残してくれた歴史に感謝と感動があ
ります。

はい。和紙の強さは偉大ですね。
私は美濃にある日本和紙会館にも、この翌日行って来たのですが、
三椏や糀から作られている和紙の強さに驚かされました。
また、和紙の逸話については、後ほど書きますね。

>サンフランシスコから北上50マイルのところにフォト ロスというロ
シアの砦1812年頃がありました。西海岸を北上するとロシア帝国がア
ラスカに乗り出していた頃の歴史があります。

なるほど、もうすぐそこにアメリカ大陸がありますものね。

>アムチトカ島でロシア人
に出会ったと聞くとロシア帝国がラッコを捕るためにアラスカから段々
と南下して来ていた歴史の一部に繋がるのかなと想像します。

そうなんです。ラッコやアシカの毛皮を獲るために、
ロシア政府が派遣していたロシア人と、光太夫は会うことが出来たのです。
地元の識者の方に彼らの菩提寺を案内して貰いながら、
お聞きして来た話もあります。
また、続きを書きますから、是非、読んでやって下さい。


☆takakoさんへ No2

2007/9/19  11:19

投稿者:ほたる

takakoさん、サンフランシスコから貴重なコメントをありがとうございます。
マークトゥインの手紙は、万次郎が暮らしたフェアへヴンの
ミリセント図書館に展示されています。(当ブログにも写真を載せてます)
万次郎にまつわる記念品と共に、takakoさんには是非観て頂きたいです。

>ほたるさん みなさんこんにちは。
先頃ノルエーの船の作り方を見ていたのですが、千石船 頼もしく美し
い形です。

ノルエーの船作りも素晴らしいそうですね。
千石船も、当時にしては、凄い技術だと思います。
随分前に三重県にある「船の博物館」へ行きましたが、
嵐の多い太平洋に繰り出しても耐えうる船を造る技術を、
行使していたようで、素晴らしかったです。

>回船問屋の『大黒屋』は紀州と江戸を結んで商いをしていたと 
古い物語に出てきます。

大国屋の事をご存知だったのですか!

>大黒屋光太夫の漂流に付いては知りませんでし
たから また新しい驚きの教えを頂いて感動しました。

いえいえ。エルミタージュ美術館に、光太夫が残して来た、
印籠や根付も展示されているそうです。
エカテリーナの外国語辞典作成に協力したり、
日本より、むしろロシアでの方が、有名なのかもしれないです。


☆takakoさんへ No1

2007/9/19  10:59

投稿者:ほたる

ポエムさん、読んで頂いてありがとうございます。
No2は、少し後になりますが、必ず投稿しますので、お待ちくださいね。

>私の全然知らなかった人だけに、読んでいるうちにどんどん
海の真ん中に放り出されたような…!

はい。7〜8ヶ月の漂流の厳しさ、やっと辿りついた島も北の果て…。
光太夫達の苦労は、まだまだここから…です。
16人いた仲間も飢餓や寒さで最後は、5人になってしまいます。

>そしてどうなるの?の世界です!

私も本や映画で、涙しました。
私の拙い筆で、何処までお伝え出来るか?自信はないですが、
どうか、また読んで下さいね。

>ほたるさんの文章の波に乗って、私もどんどん未知の世界にと
入っていきました。

ありがとうございます。ここから長いロシア横断の旅が始まります。

>bQを、楽しみにしています!

どうしても帰国したい…光太夫の切望と意思は、岩をも貫く強さがありました。
少しホットなニュース?の記事の後、載せますのでどうぞ宜しくお願いします。



☆ポエムさんへ

2007/9/19  10:53

投稿者:ほたる

メリンダ社長様、こんにちは。

>大国屋光太夫の事は知りませんでした。

はい。かなり日本の蘭学の発展に貢献したはずですが、
ご存知ない方が多いですね。
実際、三重県の人でも知らない一が多いです。

>記念館に書かれている説明も読み大変勉強になりました。

ありがとうございます。
No2は、もう少し後になりますが、しっかり?と書きますので、
また、読んでやって下さい。

>先駆者が居たわけですね。

はい。そうなんです。
光太夫の時は、鎖国も比較的厳しくなくて、
江戸に家を与えられて生活していたようですが、
やはり、幕府は外の国を知っている人が恐かったので、
外部との接触を極力絶ったのだと思いました。
光太夫が鈴鹿に帰省した事も、まだ最近判ったようです。
光太夫の息子さんは早逝し、子孫が残らなかった…と言う事も、
歴史の狭間に埋もれていた原因のようです。


☆メリンダ社長様へ

2007/9/18  14:18

投稿者:takako

ほたるさん みなさんこんにちは。
先頃ノルエーの船の作り方を見ていたのですが、千石船 頼もしく美し
い形です。
回船問屋の『大黒屋』は紀州と江戸を結んで商いをしていたと 
古い物語に出てきます。大黒屋光太夫の漂流に付いては知りませんでし
たから また新しい驚きの教えを頂いて感動しました。
『光太夫の漂流記』がある事にも驚きます。古い書き物が残っているん
ですね。今時の紙は一週間 日なたに置いてあると変色してボロボロに
なるものが多いですから歴史の紙が残してくれた歴史に感謝と感動があ
ります。
サンフランシスコから北上50マイルのところにフォト ロスというロ
シアの砦1812年頃がありました。西海岸を北上するとロシア帝国がア
ラスカに乗り出していた頃の歴史があります。アムチトカ島でロシア人
に出会ったと聞くとロシア帝国がラッコを捕るためにアラスカから段々
と南下して来ていた歴史の一部に繋がるのかなと想像します。

http://diary.jp.aol.com/2ymvsg59/


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