2007/9/25

大黒屋光太夫記念館を訪れて…No3、ロシア大陸横断  歴史(音吉/大黒屋光太夫/源義朝)他

伊勢の白子から約8ヶ月の漂流の後、アムチトカに漂着、現地で毛皮獲りに着ていたロシア人達と共に、自力で船を造り、カムチャックまで辿り付いた大黒屋光太夫達は、チギリスクから更にオホーツク海を渡り、ロシア大陸の東岸、オホーツクに到着した。その時、白子を出航した16人の仲間も次々と栄養不良や寒さの為、帰らぬ人となり遂にたった6人となっていた。光太夫達は、暫くオホーツク滞在して毛皮装束等の身支度を整え、帰国の嘆願書を持って、ロシア政府の漂流民担当が居るというイルクーツクまでソリで向かう事となった。(一説によると途中のヤクーツクまでは政府から与えられた馬車で行ったと言われている)。厳寒期には−60℃にもなるヤクーツク(北緯60度…北半球で最も低温地帯)から、イルクーツクまでの雪の道には、80キロ毎にソリを乗り継ぐ小駅があったという。光太夫達はレナ湖に沿って極寒のシベリアの雪原を、ソリで走り続け約4ケ月、年が明けた2月7日、ようやく氷に閉ざされたバイカル湖面の果てに、イルクーツクの町が蜃気楼のように見えてきた。
クリックすると元のサイズで表示します冬のバイカル湖…流れ出るアンガラ川は凍らない為、温度差によって水蒸気が立ち登り幻想的。

オホーツクから4000キロ、この極地の旅は想像を絶する困難な旅だったと、光太夫は書き残している。イルクーツクに辿り付いたのは、大国屋光太夫、九兵衛文小市、庄蔵、新蔵、磯吉、の6人。イルクーツク着くと、この町にも漂流民が暮らしていたという痕跡があった。南部藩(現在の岩手)から漂流して来たという久吉は、ロシアの女性と結婚して、イルクーツクの日本語学校で教えていたが、早逝してしまい、その日本語学校も不完全なままとなっていた。イルクーツクの総督は、光太夫達を帰国させるより日本語学校の教師にしようという目論見があった為、住まいと生活費を与え、手厚く持成した。

国境の町、イルクーツクは、人家も3千戸以上あり、教会、学校、病院、官公署の建物が建ち並んでいた。その町に、ペテルブルグ大学の教授のキリル・ラックスマンが、極東の植物を調査する目的で滞在していた。キリルは、ロシア政府では官位大佐待遇のフィンランド系の博物学者だったが、当時から『黄金の島』と呼ばれていた日本に強い憧れの念を持ち、密かにサハリンから日本への渡航を試みようと考えていた。そんな時、息子のアダムがイルクーツクへ光太夫を送り込んで来たのだから、大いに喜び早速光太夫に会った。そしてキリルは、光太夫から日本の事を学び、光太夫達は、キリルから地球儀を見せられたりして世界の広さを学ぶ事となる。映画「おろしや国粋夢譚」では、緒方拳演ずる光太夫達が、キリルの部屋に招かれ、日本の小ささ、そして広大な世界を見せ付けられて、カルチャーショックを受ける様子が有り有りと描かれていた。
イルクーツクのロシア正教会クリックすると元のサイズで表示します

光太夫達のロシア語の吸収力の早さ、ロシア文化の学習能力の高さ…その姿を観たキリルは、学問をまともに学んでも居ない、一介の船乗り達がこんなに賢いとは、日本人は優秀な民族なのだと確信し、益々日本への想いは熱くなっていった。キリルは漂流民返還を名目に、日本への通商使節派遣しようという筋書きを立て、光太夫に帰国の嘆願書をイルークツクの総督に出すよう申し出た。しかし半年も待って届いた返事にはロシアに永住するように…と書かれていた。日本語学校に士官すれば、税金も免除するという優遇も書かれていたが、光太夫の絶対に帰国するという信念は揺らがなかった。それは海に散り、異国の土となった仲間10人の叶わぬ想いを胸に抱き続けていたからだと思った。

その後、光太夫は3度帰国の嘆願書を出した。政府は生活費を打ち切ったが、光太夫の帰心は揺らがなかった。一方、凍傷にかかり両足切断によって帰国も厳しくなった庄蔵は、仲間にも心を閉ざしてしまっていたが、ロシア正教に入信する事によって生きる希望を見出そうとしていた。しかし日本ではキリシタンは火炙りの刑…庄蔵は帰国を諦め日本語学校の教師として生きる道を選択せざるを得なかった。その頃、九兵衛文と新蔵は熱病にかかり年長者の九兵衛文が亡くなってしまった。光太夫達がイルクーツクに着いて約1年、町はまた新年を迎えようとしていた。
クリックすると元のサイズで表示します 光太夫のロシア大陸横断図。
オホーツク→イルクーツク→ペテルブルグまで…青緑のライン。(クリックで拡大)


その頃、光太夫の元にキリルが朗報を持って来た。それは「近くペテルブルグに上がる用意が整ったので一緒に行って直接国王に帰国を願い出よう」という途方も無い計画だった。光太夫達はそれは日本の将軍様に会うようなもの…日本なら打ち首と一瞬怯むが、ここに滞在したままでは、何時まで経っても埒があかないと、光太夫1人がペテルブルグへ向かう決心をした。1月15日、光太夫達が白子を出てから10年目の冬、光太夫はキリルが用意した官軍の馬ソリに乗って一路ペテルブルグへと旅立った。イルクーツクからペテルブルグまで6200キロ。しかし官軍使用の8頭立ての馬ソリは1日200キロというスピードで、西シベリアからウラル山脈を越え、ロシアの広大な大雪原を、鈴の音も高らかに西へ西へと進んでいった。官用ソリは36日目にフィンランド湾を望み運河を湛えたロシア帝国の美しい首都…ペテルブルグに到着した。尚、光太夫がオホーツクからペテルブルクまで結果的に往復する事となる距離…約1万キロは、地球を半周する距離に及ぶという。…No4へと続く

※トラックバックは大黒屋光太夫記念館を訪れて…No1 、No2
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