七
夜が更けて肌寒さが増した。
蚊帳の中の床の上に、軍治は目前と座っていた。
「まだお寝らぬのでー?」
さだが気づかわしげに言った。
あかりのない軍治の枕元まで、立て付けの悪い襖のすきを一筋の明かりが流れ込んいた。
肌寒い冷えかたなのに、隅の壁際にする蚊の音が妙に頭に突き刺さるようだった。
「今ごろ、何処におられるやらー、襦袢も召さずに出かけたままでー」
呟くように言うさだの声が、あたりの静寂さのなかへ沈んでいった。
伊達もあって、甲府の勤士や諸役人は、夏は襦袢を着なかった。素肌に着た単衣では冷たさも身に沁みるであろう。
昨日今日、庭で聞こえる虫の音もぐっと寂れたようである。
軍治は自分の健康のように、何も彼も地震が崩れていくのを扱いかねていた。弟にかけていた望も、自分の望みも画餅に帰した今になれば、ただ願うのは、武門の自首であった。武士らしく潔く罪を着ることだ。このままでは許されぬ。このままでは無頼の徒の仕業と変わるところはない。父・為信の理想たる『武門』の名にかけても、山縣の名にかけても、身をもって血の誇りだけは守らねばならぬ。
軍治は、深沈と更けてゆく夜の庭先に、何時とはなしに全神経が集中されている自分を発見して、自分自身に驚くのであった。
夜が明けて暫く眠ったと思ったが、目が覚めた時には、陽は高く、何事もなく晴れ渡っていた。
軍治は身支度を整えると、そのまま田町から一直線の道筋を、飯田新町の兄の浪宅へ向った。
途中会う町人の眼差しにも、彼は面を伏せた。これでは暴漢の肉親そのものではないか?何処に、刀にかけての面目があろう。昨夜からの気も肚立ちが胸につかえてくる。
畑中の茅葺のささやかな百姓家に、兄・昌樹は座っていた。彼の前には、見慣れぬ琴が置かれてあった。しかし、その顔は虚脱の感じであった。だが、この場合、兄の前に琴があるのは兄らしいと軍治は思った。どんな場合でも、管弦から離れない打ち込んだ凛々しいすがたであった。
「竹亭殿の手に入れた琴だ」
昌樹が、軍治のp方に押しやるような格好をして言った。
「これがの、だいぶ古いらしい」
「名器だ。銘もある」
と、差し出す処に『愁聲』と刻まれていた。
「弾いてみるかの」
だが、それは言っただけのことで、昌樹はことを大切そうに抱えあげて、床の間とは名ばかりの狭い床にかけた。 続く
石井計記著 黎明以前より転載

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