武力・財力で信西政権の土台を支えるかげになる
保元の乱後、政治の実権を握ったのは信西でした。鳥羽法皇の崩御により院政は一時中断し、表面上は後白河による天皇親政が始まったのです。しかし「中継ぎ」天皇である後白河に親政を実現するほどの権威があるはずはなく、天皇を支える摂関家も乱の過程で一気に弱体化していた。天皇の乳母の夫であり、かつ鳥羽崩御後の政局を一手に取り仕切ってきた信西が、官位の壁を乗り越えて一躍政治の表舞台に飛び出したのです。乱の直後から、大規模な荘園整理令や神人悪僧統制令などの新制の発布するとともに、内裏や朝儀の復興による宮廷秩序回復に勤めたのです。
この信西の国政改革を財力・武力の両面から支えたのが、清盛および平氏一門でした。武力面では京中での武装停止のほか、荘園整理や悪僧の統制など諸国の治安維持に活躍。財政面では、保元二年(1157年)の内裏造営において、清盛が播磨国の知行により仁寿殿(紫宸殿に次ぐ規模を持つ殿舎)を造営したほか、経盛が淑景舎、教盛が陰明門、頼盛が貞観殿を造営するなど一門そろって主要殿舎を担当、北廊(内裏北側にある廊下)担当の義朝との格の違いを見せつけたのです。この内裏造営の功により、一門はそれぞれ位階を上げましたが、清盛のみは昇進を見送られ、その功の譲りによって重盛が従五位上に叙せられます。清盛はすでに正四位下でその上はもう公卿しかありません。いかに功臣清盛といえどもすんなりと昇進させるわけにはいかなかったようです。
その代わりというわけでもないでしょうが、保元三年(1158年)八月、清盛は太宰大弐に任命されたのでした。太宰大弐は太宰府の実質的な長官で、多くの場合、公卿が任じられる役職で、この昇進は、清盛の公卿昇進が間近に迫ってきていることを表すとともに、太宰府の長官として日宋貿易にも深く関与していったことをも示しています。
保元四年(1159年)二月には後白河御願の白河千躰阿弥陀堂を建立し、落慶供養に後白河の臨幸を仰ぐなど、正盛以来、院の近臣として行ってきた皇室の崇仏事業の後援も覚えめでたいことになったのです。
それとほぼ同じ時期に、宮廷においても大きな動きがありました。信西と美福門院のはからいにより後白河が皇太子守仁に譲位、それに伴って忠通が関白を退き息子基実が関白に就任するのです。この時より、以後三十年以上に渡る後白河院政が始まるわけですが、この時点ではまだ後白河は無力であり、実権は相変わらず信西に握られたままだったのでした。

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