京都新聞に、何日かにかけて、金閣寺の焼失と再建についての連載記事が載った。
証言記事という形で、それは何と、金閣寺の焼失を文字通り目の前で見た僧侶、現在相国寺派の宗務総長という人の話だ。
しかも、金閣寺(金閣舎利殿)に放火したのは、当時金閣寺で見習い坊主をしていた、その人の兄弟子だったという。
その証言があまりにも生々しく、ものすごい内容だったので、都合7回くらいに分けて掲載された記事を夢中で読んだ。
おりしも私はなぜかレンタルで「炎上」を見たばかり。
グッドタイミングと言うほかなかった。
だから京都新聞が好きさ。
それはともかく、証言をしているそのEさんは、当時まだ小坊主だっただろう。
兄弟子は、Eさんを訪ねて京都へ来ていたEさんの父と、その夜、将棋をしていたという。
Eさんが目を覚まして気がついた時、舎利殿は既に燃え上がっていた。
寺にいる者が全員召集されたが、件の兄弟子だけがいない。
翌日自殺未遂の姿で兄弟子が裏山で掴まった。
のち、金閣寺の住職(Eさんの師匠)が托鉢して資金を集め再建にこぎつけ、放火犯の母親が自殺したことは衆知のとおり。
燃え残った舎利殿のこと、その後の観光、そして再建の様子など、ドキュメントとして驚くべき、そして貴重な証言だと思う。
是非、新書などの本にして残すべきだ。
それくらい読みごたえがあった。
再建のあと1987年に修復が行われた。
その証言も貴重である。
再建から時が経つに連れて金箔が剥がれ、まだらになって見苦しくなった。
85年に再建に尽力したEさんの師匠が亡くなり、以降はEさん本人が師の遺志を継いで修復に努力したという。
修復では、金箔を従来の5倍の厚さにした。
その技術は困難で、なかなか請負ってくれるところがなかったが、金箔の産地、金沢で技術者がやっと見つかった。
下地の黒漆塗りの作業も精密さが要求された。
仕上りがあまりにも見事だったため、金箔を貼る予定だった二層内部を黒漆仕上げにした。
などなど。
これを読んで、87年の修復作業にも、日本の伝統産業の技術がふんだんに投入されていたことを改めて思い知った。
修復後の金閣寺はピカピカのペカペカで、プラモデルみたいだとか、金メッキみたいだとか、そんな風に言っていたことを深く反省した。
技術的には困難だった5倍の厚さの金箔を可能にしたからこそ、ああしていつまでも剥がれない、いつ見てもピカピカの金閣寺でいられるのだ。
枯淡やワビサビを捨てて、「いつまでも新品」を選んだ。
再建時に、江戸時期の修復で変えられた部分をもとに戻し、創建当時の姿を再現したという。
そして、修復によって、創建当時の姿をそのまま封じ込めた。
それを、いつでも、好きな時に見ることが出来る我々は幸せ者ではないだろうか。

12