2020/10/14

「ある画家の数奇な運命」2018独  今日の映画

 今回の映画はドイツの画家ゲルハルト・リヒターをモデルとした映画。リヒターと言えばロサンゼルスのLACMAでいわゆるフォト・ペインティングとアブストラクトをみてびっくりしたのを覚えている。去年には国立近代美術館の「窓展」で8枚のガラスが来たのかな。
 ただ、今回の映画においてリヒターの許可の条件として「何が事実で何がフィクションかは明らかにしない」という物があったそうだ。その為に虚実入り混じる話になるわけだけど、ちょっと考えられないような飛躍もあったりする。

 第二次世界大戦前夜のドイツ。ドレスデン郊外に住むリヒターは美しい叔母エリザベスの影響で絵を描くことが大好きな少年だった。しかしその叔母は精神のバランスを崩し強制的に入院。その後障害者安楽死政策により殺されてしまう。
 戦後、美術学校に進んだクルトは服飾科の生徒エリーと恋に落ちる。しかし、彼女の父親こそが叔母エリザベスの死を宣告した医師ゼーバント教授だった…。



 予告ではサスペンス要素を前面に押し出していたが、実際には題名通り一人の画家が自分の芸術に目覚めるまでを丹念に追った作品で、どちらかというと青春映画に近い。確かにゼーバントとの対立がこの話のメインでもあり、その問題は作中で決着がつくのだがそれはあくまでクルトが自分の芸術に目覚めた結果の余波に過ぎない。

 今回の映画で芸術論が三回語られる。最初は冒頭のドイツ、頽廃美術展での「芸術は歴史の積み重ねであり、その伝統に基づかないものは価値がない」という言葉であり、2回目は東ドイツのアカデミーにおける「芸術は人民に奉仕するものであり、自己を押し出す作品は反革命的である」という言葉である。ちょっとでも美術史をかじっているなら常識ではあるのだが、この言葉を聞いて正直居心地が悪くなった。あいちトリエンナーレにからんで現代日本でもこのような主張が公けに語られるのを聴いてきただけに、ぜんぜん他人の話じゃないと思ってしまったのだ。
 クルトは紆余曲折の末東ドイツを脱出し、デュッセルドルフ美術大学に入学を果たす。そこで真に自由な芸術を模索するのだが、自由であるがゆえに何も生み出せないという苦境に陥る。しかし、フェルテン教授(ヨーゼフ・ボイスがモデル)の「自分の芸術の価値は自分にしかわからない。自分の血肉のなかから生み出したものだけが芸術足りえる」という言葉を元に、過去の写真の模写という新しいスタイルを生み出す。

 実はここにこの映画の飛躍がある。フォトペインティングと言えば「無作為に選んだ素人の写真を模写することでモチーフや構図の意図を排し、その中に写る真実を抽出する」という説明がされてきたし、実際に作中でもクルトはそう説明している。しかし、映画内で初めて描かれるフォトペインティングはクルトにとって非常に意味がある写真が選ばれ、直観によって組み合わされた絵は、クルトの、そしてゼーベントの真実を映し出すのだ。これは従来の見方を完全にひっくり返す扱い方である。
 この映画の内、ゲルハルト・リヒターの叔母がナチスによって殺されたこと、その責任者である医師の娘と結婚したことは史実である。しかし、この映画で描かれた最初のフォトペインティングは存在しないはずである。では、なぜリヒターは自分の芸術をこのように映画化することを望んだのだろう。これもまた史実なのか、リヒター自身の願望が反映されているのか。

 真実は明かさないという事が条件である以上推測するしかないのだけれど、この映画の外にあるものにこそ関心が行く映画だった。
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タグ: 映画



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